東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻

  
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  1. 映画専攻第11期生修了制作展 開催!

映画専攻第11期生修了制作展 開催!

東京藝術大学大学院映像研究科
映画専攻第11期生修了制作展

 

みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙 vol. 2

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わたしたちは遊ぶ
映画で遊ぶ
この遊びとはなんだろう
いくつか定義がある
ここに二つ、三つその例を示そう
他人の鏡のなかに
自分の姿を映してみること
世界と自分自身とを
素早くそしてゆっくりと
忘れそして知ること
思考しそして語ること
奇妙な遊びだ
これが人生なのだ

───「みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙」より
ジャン=リュック・ゴダール


本上映会は東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第11期生の修了制作展です。最初の上映から一年、四通の新しい手紙を書き送ります。

◆2017年1月28日(土) 29日(日)
横浜会場:東京藝術大学横浜校地馬車道校舎
◉2017年3月4日(土)〜10日(金)
渋谷会場:渋谷ユーロスペース
Twitter:@GeidaiFilm_11
Facebook:https://www.facebook.com/mintomo11/


 

◆横浜会場
【会期】2017年1月28日(土) 29日(日)
【会場】東京藝術大学横浜校地 馬車道校舎 3階大視聴覚室(103席)
横浜市中区本町4-44(みなとみらい線「馬車道」駅5、7番出口すぐ)
【料金】入場無料・予約不要
【主催】東京藝術大学大学院映像研究科 横浜市文化観光局
【スケジュール】
1月28日(土)12:30開場
13:00 『ミュジックのこどもたち』

14:30 『みつこと宇宙こぶ』

15:30 『わたしたちの家』

17:10 『情操家族』

1月29日(日)12:30開場
13:00 『情操家族』

14:40 『わたしたちの家』

16:20 『みつこと宇宙こぶ』

17:20 『ミュジックのこどもたち』


 

◉渋谷会場
【会期】2017年3月4日(土)~10日(金)
【会場】渋谷ユーロスペース
渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 3F
【会場ウェブサイト】http://www.eurospace.co.jp/
【お問合わせ】03-3461-0211
【料金】前売券:700円 当日券:900円(均一) フリーパス券:1500円(会期中何度でも入場可能)
【主催】東京藝術大学大学院映像研究科
【スケジュール】

3月4日(土)  『情操家族』
上映前・舞台挨拶
登壇者:竹林宏之監督、山田キヌヲ、柳谷一成

3月5日(日)  『わたしたちの家』
上映後・舞台挨拶
登壇者:清原惟監督、安野由記子、大沢まりを、藤原芽生、菊沢将憲、古屋利雄

3月6日(月)  『みつこと宇宙こぶ』
イベント上映:春期実習作品『FOLLOW』(2016/30min/シネマスコープ)
上映後:トーク:竹内里紗監督 X 万田邦敏監督(ゲスト)

3月7日(火)  『情操家族』
上映後・トーク:竹林宏之監督 X 諏訪敦彦監督(ゲスト)他、調整中

3月8日(水)  『ミュジックのこどもたち』
上映後・舞台挨拶
登壇者:佐々木健太監督、伊東茄那、生津徹、菊池芙美
上映後・トーク:佐々木健太監督 X 角井誠さん(映画研究、表象文化論)

3月9日(木)  『わたしたちの家』
上映後・トーク:清原惟監督 X 黒沢清監督(ゲスト)

3月10日(金)   『みつこと宇宙こぶ』

『ミュジックのこどもたち』

※連日21:00から上映
※会期中舞台挨拶・トークあり


単純明快な作品などひとつもない。みんなそれぞれに、何か大きなものに挑み、気持ちのいいくらいの試行錯誤を繰り広げ、複雑で重層的な語り口の中から、必死で信じるに足るものを探し出そうとしている。そしてその中から、おそらく偶然なのだろうが、全ての作品に共通の物語的主題がはっきりと浮かび上がってきていることに驚いた。そのひとつは、いまや従来の家族はまったく機能していないという点。もうひとつは、男はほとんど役に立たないか傍観者にすぎず、主体は女性の手に握られているという点。……なるほど、そうかもしれない。しかし4人の若い作家たちにとって、そのことは決して悲観すべきことではなく、むしろ希望、世界と映画に立ち向かうための絶好の主題であるように思える。
黒沢清(東京藝術大学大学院映像研究科教授)

 

ふと、昔見たある映画の中のセリフを思い出す。「世界を救うのはこどもや兵士や狂人なんだ」と。こどもとは、疲弊して色彩を失った世界を真新しい視線で再び息づかせるものであり、狂者とは、自分が何者であるか知らぬままに、世界の秩序や意味をかき乱し再生させるものであり、兵士とは、我を忘れて戦いに身を投ずるものであるとするなら、この4本の映画の中では、確かにそのようなものたちが、自ら傷つきながらも生き生きと行動し、世界に新たな光を与えているように見える。奇抜なアイディアや、派手な出来事によって映画を飾り立てることもないが、4本の映画はこどもと兵士と狂者とともに、それぞれの回路で世界に亀裂を生じさせ、映画と世界の新たな接続を試みるのである。
諏訪敦彦(東京藝術大学大学院映像研究科教授)


 

『ミュジックのこどもたち』

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『ミュジックのこどもたち』
2017年/75分/ヨーロピアンビスタ/5.1ch/カラー/DCP
監督・脚本・編集:佐々木健太
脚本:木村暉|プロデューサー:池本凌太郎 渡邊健悟|撮影:龍浩錕|照明:上野陸生|美術:美崎玲奈|衣装:栗田珠似|衣装協力:山崎忍|サウンドデザイン:川神正照|サウンドデザイン助手:仲間章雄|記録:李奥洋|助監督:野頭雄一郎|俳優担当:小林のんき|製作担当:森田雄司|音楽:高橋宏治
出演:伊東茄那 中崎敏 新津ちせ 鎌滝秋浩 長内映里香 生津徹 菊池芙美 小林永実

【あらすじ】
女子高生のマーフは、幼い時に母を亡くし、実父と義母、そのこどもである6歳のまあやと暮らしている。しかし酒に溺れる父には乱暴に扱われ学校でも孤独な生活を送っていた。夢見がちな幼いまあやとだけはいつも一緒にいる。ある日、森に迷いこんだマーフたちは、狩猟を生業とし、森の入り口に建つ古びた一軒家に住むマサとその叔父の次郎に出会う。マサと過ごす日々に、亡くなった母親の記憶やなつかしいうたを思い出すマーフ。音楽とうたのあふれるふしぎな森から、こどもたちの新たな旅がはじまる。

【監督プロフィール】
1985年北海道生まれ。立教大学映像身体学科卒業。大学在学中に『クーラン・オプティック』が仙台短篇映画祭に入選。『帰って来た珈琲隊長』は、ぴあフィルムフェスティバル2015にて上映された。藝大で16mm短編作品『どうでもいいけど』(脚本:木村暉)、他にファンタジー短編『Alice』。
 

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【コメント】
毅然と憎しみの感情を爆発させる主人公のたたずまいが美しい。憎しみが美しいというのが粋である。映画のヒロインとはこうでなければならない。家の内から外へ、あるいはその逆へ、彼女は自分の居場所を見つけようと絶え間なく移動する。まるで映画そのものが居場所を見つけ出そうとしているかのように。それにしても、ここはいったいどこだろうか。街のような森のような、この世のようなあの世のような…全ての境界線が曖昧になった一種の寓話的世界で、コミュニティの崩壊と再生が思いのほか壮大に描かれる。それと、森の中で突然行われる情事がまことにエロチックだった。
黒沢清

 

映画は、たとえどんなに荒唐無稽な世界であっても、それを「信じる」ように仕向けられる。その世界に綻びがないよう細心の注意が払われる。しかし、ここでは映像と映像が相互に補いながら一つの出来事をスムーズに了解させるよりむしろ、断絶し、エッジを際立たせ、世界は軋みはじめる。震えのようなその綻びには、何かのっぴきならないアンビバレンツな力学が働いており、そこに「映画」と向き合う作者の精神が現れていると思う。山間の古い家屋で世界と隔絶し、銃によって「命を頂いて」暮らし、やがて気球で好きなところへ自由に飛んで行こうとするマサたちの暮らし=孤立したユートピアが箱庭のように描かれるのであるが、地上にもはやユートピアが不可能であるとすれば、本当に空を飛んでいかなくてはならないのかもしれない。しかし、私たちは目に見えるものよりも、この軋み(音楽)こそを信じるべきなのだ。冒頭のマーフの微かな歌声が、やがて、堂々とした死者とのコーラスとして響くとき、音楽はその綻びから物語を超えて世界へ染み出すような感動的な響きを湛えている。
諏訪敦彦

 

マーフはなんども振りかえる。ときには数コマの断絶した襞さえその身にひきうけて。オルガは目を瞑ったが、マーフは瞑らない。振りかえったさきで彼女は見ようとする。それはときに我々にも見える。森のなかでは死者と生者が平然と居ならび、ともに歌うのが見える。幼いまあやの話し相手である少年も、ときに画面にちゃっかりと映り込んでいる。佐々木健太は見えないものを平然と画面に連れもどす。その軽やかな足取りは、いちどは目を瞑ったことのある者だけがなしうる身振りなのだろう。鏡に背をむけるマーフの背中は、確実に彼方からの音楽を受けとめる。絶望を請け負ったこどもたちが、もはや見えなくなった者たちと、天国ではなく地上で生きていけるように、私たちの音楽は鳴り響く。光は闇を照らす。notre musiqueのこどもたち。
早川由真(映画研究者)

 

二つの家。一つは、町中にあるらしい。もう一つは森の中にあるようだ。町中の家には、父親と再婚相手の母親とその幼い娘、そして最初の母親の娘。娘は両親に反発しているようだ。マーフ、まあやという娘の名前は、ここが日本じゃないみたいだ。娘二人が訪れる森の家に住むのは猟師の男二人。年配の男は若い方の叔父らしい。そして、熱気球の設計をするその飛行家がゴーグルをつけた姿は、まるで『紅の豚』(宮崎駿)から抜け出てきたようだ。しかし、そうしたことは徐々に明らかにされる。つまり、草原を歩く女性のロング・ショットや、古い家を訪れた子どもたち等、冒頭近くで放り出されたショットの時制は曖昧なまま進行するのである。やがて四人と二人の家族の構図は反転する。娘二人が脱出して、森の男の家で過ごすからである。分断してしか捉えられなかった町中の家族に対して、猟の獲物の肉料理を食べる四人の疑似家族は調和した空間として描かれる。だが、家の空間の対比にも増して重要なのは、森の空間だろう。『ミュジックのこどもたち』では、変化する草原や森の表情を定着させているところに大きな魅力がある。それは精霊たちが踊り、器楽を奏でる祝祭的な場になり、娘が亡くなった母親と会話を交わす黄泉の国にもなる。そう、これは寓話である。しかし、映画としての問題は、監督の佐々木健太が、そうした物語やそれを可能とする映画というメディア自体への疑念を通して、この作品を成立させようとしていることである。前述した物語の不透明さもそうだし、演技前の時間やカット尻のカブリ(この作品は一部35mmフィルムで撮影されている)、シーンを極端に圧縮し飛ばす等の編集に現れている。この作品の破天荒なまでの晦渋さは、そうした矛盾の積み重ねによっている。果たして擬似家族は気球で飛び立ったのか?
筒井武文

 

想いが転がってゆく、そんな時間の流れを感じた作品だった。風景、移動、表情、言葉…、印象的な細部を挙げていけばきりがないが、この映画が投げかけてくるものは、それらが何かの総合体に構築されるものではなく、ただ散らばった小石のように、時々かさなり、時々はじける。音楽も同じで、状況の説明でも心情吐露でもなく、ただ唐突にメロディがある。実は不幸な家を出た赤ずきんが寂しい狩人たちに出会って、たぶん何も始まらない。ただ想いだけが、ぽつりぽつりと、落ちて、転がってゆくような世界。メルヘン未満、でも実はそれが映画というものなのかもしれない。
渋谷哲也(ドイツ映画研究)


 

『みつこと宇宙こぶ』

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『みつこと宇宙こぶ』
2017年/40分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP
監督・脚本:竹内里紗
脚本協力:峰尾賢人|プロデューサー:池本凌太郎 関口海音|撮影:松島翔平|照明:諸橋和希|美術:侯捷 王慧茹|衣装:栗田珠似|録音:清水裕紀子|サウンドデザイン:伊豆田廉明|編集:小林淳之介|助監督:川上知来 大杉拓真 山本英|製作担当:崔得龍|ヘアメイク:熊谷七海|特殊メイク:征矢杏子|音楽:金光佑実
出演:小松未来 金田悠希 島野颯太 宮野叶愛 百合原舞 伊原聖羅 篠崎颯夏 根矢涼香 坂井昌三 永山由里恵

【あらすじ】
9月20日。晴れ。目に見えない部分だから気になるのかな。最近「こぶ」の中身についてよく想像をふくらませてる。学校に行く道でも、お風呂に入っていても、夜に眠れないときも、ずうっと考えちゃう。だって「こぶ」の中身がわかれば、他のことについてもわかるような気がするんだ。

【監督プロフィール】
1991年生まれ。神奈川県出身。立教大学映像身体学科・映画美学校フィクションコース卒。大学の卒業制作として監督した『みちていく』が第15回TAMA NEW WAVEにてグランプリとベスト女優賞をW受賞し、翌年劇場公開。現在、DVDがレンタル・発売中となっている。DVDには藝大にて1年次に制作した16mm実習の短編『感光以前』も特典として収録されている。
 

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【コメント】
主人公は13才の女子中学生だ。だから彼女の人間関係は学校を中心として形成されている。にもかかわらず、授業も教師も出てこない。彼女も作者もそういうものにまったく関心がないのだ。それより彼女は、驚くべき執着で何でも破壊してまわる。おそらく表面を砕いてその中身を確かめたいのだろう。それが大人になるための通過儀礼なのか、それとも子供の領域だけに許された遊戯なのかはわからない。しかし、一途に突き進む彼女の身のこなしは、有無を言わせぬ感動を呼ぶ。ふとジャン・ヴィゴの名前が浮かんだ。映画はきっと、このような者を肯定するために発明されたのだろう。
黒沢清

 

映画の中のこどもは、多くの場合その可愛らしさを利用されたり、大人が見たいと思う子供らしさを演じさせられたりする。しかし光子がしりとりをしながら商店街を駆け抜けるスピード、横断歩道でフラミンゴのように片足をブラブラさせる立ち姿、セリフの間合いやちょっとした仕草が、彼女を映画世界の中にユニークに息づかせる。撮影、美術、音響も演出を的確に実現しているが、監督が俳優のユニークさを捉え、その身体を生かしながら、一方的な操作に陥らぬよう、共働者として光子を演じる俳優に映画作りに参画させているように思える。そのことで、私たちはまだ子供っぽい光子の妄想を生きることが可能になる。こぶを恋心のシンボルのように扱ってしまえば陳腐なイメージになってしまうが、こぶは光子の言うように宇宙そのものであって、その妄想を生きる狂気が、世界を息づかせるのだ。こぶが消えると、光子は大人になって、この現実世界に回帰する。彼女の身体表現や発話を変化させて成長というものが確かに視覚化されていることが素晴らしいが、光子がさらに別の宇宙を生きる結末を見てみたい気もする。
諏訪敦彦

 

中学生みつこは、父と姉と三人暮らしである。ここでのみつこの部屋に対応する空間は教室しかない。冒頭近くの教室での視線劇、竹内里紗はみつこと二人の男子生徒を台詞抜きに視覚化してみせる。みつこが好きなこぶを持った少年、みつこが好きな眼鏡の少年。この三人の顛末は、終盤校庭での視線のやりとりで反復されるだろう。みつこはこぶに憑かれた存在だ。彼女にとっては、こぶ=惑星、世界の秘密を解明する手段なのである。その彼女が世界を夢想できる空間は、自室の中だけ。ただし、姉と一室を分け合っているため、姉が眠るか、不在の時間に限られる。暗くなった部屋での360度パンにより、魔法のような時空が現れる。しかし、みつこが現実を直視するためには、宇宙こぶの幻想が壊れる必要がある。その結果、みつこは眼鏡の少年の部屋を尋ねるのである。しかし、少年の部屋は、みつこの部屋と釣り合うように空間が描かれはしない。彼女を保護する空間はもうないのだ。偶然知り合った痴呆性老人と、少年が飼う亀。その二つの死。少年と二人で訪れた二本の巨木の下。そこに埋めた亀の墓を前で祈る二人のシルエット。そこでのシルエットとなったロング・ショットは光線の加減といい、途方もなく美しい。それは、彼女の身を守る空間の不在と引き換えの美でもあるのだ。『みつこと宇宙こぶ』が、児童映画のパロディとしてのフォルムを仮装しながら、竹内里紗にとって、高い評価を受けた『みちていく』以上に重要な作品となっているのは、以上のような理由による。
筒井武文


 

『わたしたちの家』

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『わたしたちの家』
2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP
監督:清原惟
脚本:清原惟 加藤法子|プロデューサー:池本凌太郎 佐野大|撮影:千田瞭太|照明:諸橋和希|美術:加藤瑶子|衣装:青木悠里|サウンドデザイン:伊藤泰信、三好悠介|  編集:Kambaraliev Janybek|助監督:廣田耕平 山本英 川上知来|音楽:杉本佳一
出演:河西和香 安野由記子 大沢まりを 藤原芽生 菊沢将憲 古屋利雄 吉田明花音 北村海歩 平川玲奈 大石貴也 小田篤 律子 伏見陵 タカラマハヤ

【あらすじ】
ある一軒の家には二つの時間が流れていた。
14歳のセリは母親の桐子と二人暮らし。セリは桐子が新しい恋人をつくったことに反発している。ある日、セリはお父さんの倉庫からクリスマスツリーを出してきて……。
自分がどこからやってきたのかわからない、突然記憶を失くしてしまった女、サナ。目覚めた船の中で、サナは透子という女に出会う。あてのないサナは透子の家で暮らし始める。

【監督プロフィール】
1992年生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学映像学科卒。同大学在学中に監督した『暁の石』がPFFアワード2014に入選。同卒業制作の『ひとつのバガテル』がPFFアワード2015に2年連続で入選、第16回TAMA NEW WAVEにノミネートされる。他に藝大で制作した『しじゅうご円』『音日記』がある。
 

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【コメント】
暗い古風な家の中で二つの物語が交錯していくわけだが、よくこんなアイデアを思いついたものだ。しかも、その突飛な設定がまったく上滑りせず、あらゆる画面にサスペンスとして機能している。これを実現するには、相当な才能と計算が必要だろう。また、海の向こうがザワザワしていて、妙に気になった。ここは多分どこかの島なのだろうと思うが、ひょっとすると黄泉の国? もしかして、どちらかが幽霊なのか!? そう言えば、冒頭は少女たちが白衣をまとって暗闇の中で揺れているシーンだった。あれが恐ろしい物語が始まる予兆だったのか!! 興味は尽きない。
黒沢清

 

目覚めると記憶を失っていた女は自分が誰であるのか分からないまま、偶然に出会った女と共同生活を始める。亡くした父の面影と、新しい母親の恋人との間で揺れる少女の日常。全く関係のない二つの物語が、いわゆる平行世界として同じ一つの家屋で進行してゆく。二つの別の脚本を、一つの家屋を舞台に撮影するという実験は、ともすれば作り手の作為が透けて見えるようなものになりかねないが、この作品が魅力的なのは、平行世界を俯瞰して操作するような作者の視点を消し去り、ただポリフォニックに響き合う二つの世界の音楽に耳を傾けるように寄り添い構成されていることにあるように思える。1+1が2になるのではなく、互いに依存することも葛藤することもなく、ただ1と1としてあることで世界を開いてゆく。その「開かれ」に風が吹き込むように、それぞれが奏でる淡い物語はやがて溶け合って、世界をみずみずしく息づかせるのである。
諏訪敦彦

 

同じ家に住む二組の女性二人。しかし、お互いは相手の存在は知らない。『わたしたちの家』の特異な点はそこにある。そこで、二つの物語が展開する。一つは、娘(中学生)と母親のホーム・ドラマ。もう一つは、偶然(果たして、そうか?)知りあった女性を自ら自宅に泊め同居生活を始める若い女性。その出会いの舞台となるフェリーの緩やかな移動が素晴らしい。こちらは、サスペンス映画のようだ。監督の清原惟を代表とする作者が、70年代のリヴェットに影響を受けているのは確かだろう。しかし、この古い日本家屋が舞台の映画の感触はまったく違うし、こんな不可思議さと日常性が混在して、しかも一つの作品として統一性を保っているのは驚嘆に値する。二つの平行世界が、現在=過去の関係でもなく、ただ障子に開けられた穴のみで通底し、存在=非在の関係として、お互いを照らし出すのである。娘は、不在(非在ではない)の父を裏切るように再婚の意思を示す母親に反発し、ジャンケンで負けた方が家を出て行くことを提案する。一方、もう一つの物語では、何か陰謀、あるいは陰謀の追求をしているらしい娘と記憶喪失の女性の家に男が侵入することで、危機が呼び込まれる。つまり、男の侵入を拒む二組の女性カップルの話なのである。彼女たちの凛とした存在の素晴らしさをぜひ見ていただきたい。その平行世界を秤の左右に分銅を徐々に積み増しながらバランスを取るように、存在=非在の関係として展開した(そのメタファーとしての花と箱の交換)編集が成功しているのだが、それは事前の計算を極力排除し、現場での発見に賭けるという特異な制作方法によって、作者たちの集団的無意識が顕在化したということなのだろうか。
筒井武文

 

「2個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」。百年以上前に、夏目漱石はこう書いた。
父親を失った少女と、記憶を失った女性の、まったく別々の物語が、ひとつの「家」の中で交錯する。
だが、二つは、ほんとうに「別々」なのか?
映画史上、誰一人として思いつかなかった、特異かつ甘美な室内劇。
謎に満ちた形而上的スリラーであり、切実で清新な思春期映画であり、女同士の類い稀な友愛の映画でもある。
ジャック・リヴェットの魂は、こんなところに転生していた。
佐々木敦(批評家)


 

『情操家族』

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『情操家族』
2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP
監督:竹林宏之
脚本:今橋貴|プロデューサー:池本凌太郎 井前裕士郎|撮影:城田柾|照明:上野陸生|美術:侯捷|衣装:栗田珠似|録音:伊豆田廉明|サウンドデザイン:清水裕紀子|編集:小林淳之介|助監督:西川達郎 大杉拓真|製作主任:林宏妍 鈴木麻衣子|ヘアメイク:橋本申二 中麻衣子|音楽:久徳亮
出演:山田キヌヲ 韓英恵 遠藤史人 松田北斗 川瀬陽太 柳谷一成

【あらすじ】
冬休み、小学校教師・小野今日子は勉学に遅れがある生徒・鉄平の補講授業を行う事になる。今日子は、鉄平の母・美映と不思議な絆で結ばれるのであった。一方、冬休みの合宿に行っていたはずの今日子の息子・三四郎が、なぜか万引きで捕まったという報が入り、ある隠し事をしている事が発覚するのだった……。

【監督プロフィール】
1988年生まれ、福岡県出身。明治学院大学文学部芸術学科に入学後、映画史を学び、映画制作を始める。主な監督作に『ハチとミツ-新しい季節-』(14)『帰れないふたり』(15)『ジョンとヨーコ』(16)がある。
 

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【コメント】
面倒見のいい女教師が、何でもかんでも面倒を背負い込み、実に面倒臭いことになっていく物語。それにしても素晴らしくヘンな映画だった。まず主人公を含めて大人たちがみんなヘン。あまりにもずけずけと物を言う。家の構造もヘンだ。熱演する山田キヌヲが部屋を飛び出してクリスマスツリーか何かを押し倒すバルコニーのような場所のヘンさ。別れた夫がどうやら海辺の堤防と思われる場所で、突然タップダンスを踊るシーンでそのヘンさは極まる。息子もつられてタップを踏むのだが、これまで見たことのない異様な光景だった。テッペイという子供だけが唯一マトモで、物言わぬ彼のたたずまいが不思議と印象に残る。
黒沢清

 

小学校教師今日子は、彼女を取り巻く世界を律儀に秩序づけようと奔走し、同時にその過剰な行動によって世界を撹乱するトリックスターである。主婦仲間の下らない雑談から立ち去る今日子が、突如直角に方向転換して走り出す後ろ姿のように、彼女には他人や自分に見せようとする私と、彼女を突き動かす衝動の間をとりまとめる中間というものはなく、その変化は不意打ちとして周囲をたじろがせるのだ。しかし、不意打ちを食らうのはむしろ彼女のほうである。彼女の秩序は彼女だけのものであり、世界のほうは常に今日子の期待を裏切るように出現する。奇人、変人による(スクリューボール)コメディというジャンルに敬意を払いつつ周到に造形された脚本が素晴らしいが、一歩間違えばから騒ぎに陥ちるかもしれない狂気の主人公と世界との喜劇的対決を、俳優の演技、身体を信頼し、活写する演出の手腕がしなやかで恐ろしいほどに冴えている。
諏訪敦彦

 

小学校の女教師と男子生徒の関係を軸として、話が構成されている。すなわち、二組の家族と教室の空間が主要舞台である。と言っても、冬休み期間で、学校に人影は少ない。その期間に補習をするほど教育熱心な今日子先生(山田キヌヲ)は、息子・三四郎と二人暮し。すなわち父親の不在。補修を受ける鉄平の母・美映(韓英恵)。しかし、こちらの家庭空間は描かれず、家族構成は不明である。そうした時、ある事件が起こり、教師親子は自宅謹慎となる。美映に頼まれ、補修の舞台は、教室から今日子の家に移る。二人暮しには広すぎるくらいの家は、母二人、男の子二人の四人家族のような様相を呈していく。山田キヌヲ対韓英恵の演技合戦が見もの。実に王道の撮り方で、役者が存分に動く空間が見事にフレーミングされる。さて、不在の父親の出現が、クリスマス、いわば束の間のユートピアを危機に陥らせる。息子が父親の元に去るのである。今日子の家に残るのは、鉄平のみ。ここで、血の通った親子より、血の繋がりのない二人の方が親子らしいという演出の妙味が存分に発揮される展開になっていく。そこに美映とその夫が訪問する。なんと二人は離婚し、息子は夫が引き取りと言うのだ。この夫による息子強奪の相似形。今日子は一計を巡らし、離婚を阻止しようとする。ここでキッチンから、居間、テラスまで活用したワンシーン=ワンカットが圧倒的に素晴らしい。作品に句点を打つ3回のフェイド・アウトのうち、最後のみ続くカットがカット・インでないという周到な編集も冴えている。驚くべきはエピローグ。悲惨でありつつ滑稽なという、つまり感動的というほかない場面が、主人公の今後の歩みを伝えるである。プロデューサーの皆さんは、竹林宏之という名前を覚えておいた方がいい。
筒井武文

 

情操。「知的・道徳的・芸術的・宗教的などのことに関して生じる感情の動き」(漢字源)。教師で母、責任感が強く、学校では悪いことは悪いとずけずけ言ってしまう主人公今日子。家では、高校生の息子・三四郎の面倒をかいがいしく見る。今日子が補講を担当することになった鉄平の母、美映と出会うことで、その世界は少しずつほころびを見せる。社会の道徳や規範を背負って生きている彼女を支えている感情は何か。今日子のエキセントリックさは、演ずる山田キヌヲの細い身体からとてつもないエネルギーとなって画面を駆け抜け、フレーム外の空間まで広がる。対する美映を演じる韓英恵も負けていない。女たちは奮闘し、男たちはタップダンスを踊る。息子たちの視線はどこに向くのか。巧みな演出 と時折入る効果的な音楽で不器用な人物たちが不思議につながっていく。そして、エニグマ的な余韻を残すラストシーン。もう一度最初から映画を見直したくなる誘惑に駆られる。過剰と抑制の間を行き来しつつ、空間を繊細に枠取りしながら乾いた視線で捉えるカメラが印象的だった。今日子、妙に共感しました。
斉藤綾子 ( 映画研究家・明治学院大学教授)

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