東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻

  
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  1. 音響技師 菊池信之 インタビュー

音響技師 菊池信之 インタビュー

小川プロダクションへの参加からキャリアをスタートし、ダニエル=シュミット、ジャン=ピエール・リモザン、黒沢清、石井岳龍、佐藤真、諏訪敦彦、⻘山真治、河瀬直美などの国内外で評価の高い作品の録音や音響を担当してきた音響技師 菊池信之のインタビュー。

聞き手 : ⻑嶌寛幸(映画専攻サウンドデザイン領域教授)、松井茂(情報科学芸術大学院大学[IAMAS]研究科⻑・教授)

〈菊池信之 KIKUCHI Nobuyuki 〉

小川プロダクションへの参加からキャリアをスタートし、ダニエル=シュミット、ジャン=ピエール・リモザン、黑沢清、石井岳龍、佐藤真、諏訪敦彦、⻘山真治、河瀬直美などの録音や音響を担当。近作に『PLAY!〜勝つとか負けるとかは、どーでもよくて〜』(古厩智之 2024 年)、『BAUS 映画から船出した映画館』(甫木元空 2025)がある。

小川プロに参加した経緯

長嶌まず、菊池さんが小川プロ(注1)に関わったきっかけを教えて頂けますか。

菊池僕が学生の頃は東大闘争があり学生運動や労働運動が盛んな時でした。三里塚でも激しい空港建設反対闘争(注2)があり、その撮影中に小川プロのカメラマンの大津さん(注3)が逮捕され、メディアにも大きく取り上げられていてそんな時でした。僕自身は学生運動に参加していたわけではないですが、卒業の時は就職と言う形で社会に吸収されていくのに抵抗を感じていて、この先どうしようかと考えていた時だったんです。スチールに多少の興味があってそんな話を友人と話をしていたら、その友人から小川プロで車のドライバーを探していると聞いてドキュメンタリー映画の現場でもあるし参加してみようということだったんです。その時の話では期間も半年程度ということだったので軽い気持ちだったと思います。でもいざ現場に入ってみると三里塚の闘争に動きがなく撮影が進展せず、半年の予定が1年になり、1年が2年まで延びてしまいました。結局2年も経ってしまったのでそのまま小川プロのメンバーになっていました。作品的には、『三里塚の夏』の後で、『三里塚』(注4)と言う作品からの参加ということでした。車のドライバーとしての参加だったのですが、撮影の途中で撮影助手をしていた人がいなくなって、僕がドライバーを兼ねて撮影中のフィルムの詰め替えなどをしていました。スタッフタイトルには撮影助手となっていますが本格的な撮影助手として仕事していたわけではないです。作品が出来上がってからは、製作部としての仕事をしていました。

長嶌最初は録音部ではなく、車のドライバーという感じで参加されたのですね。『映画作りとむらへの道』(注5)の最後のシーンで、別れて東北と四国に行って制作資金集めと上映準備をして帰ってきた後の報告会に菊池さんも参加されていますね。では、菊池さんが録音を担当することになった経緯はどんなものだったのでしょうか?

菊池録音を担当するようになったのは、撮影拠点が三里塚から山形に移ってからです。僕は撮影拠点が山形に移転する前、4、5年ほど小川プロを離れていたことがありました。しかし、山形に移ってからスタッフが足りなくなり僕に声がかかって山形に入り、再び小川プロの一員になりました。録音を始めたのはその時からです。でも元々録音に関して経験もなく特別に興味があった訳ではありません。そんな状態でいきなり録音を任されました。現場には基本的なことを教えてくれる人はいましたけど録音の経験者とか専門の人がいたわけではなく、そのまま録音を始めた次第です。でも撮影は普通に進みますから音付きラッシュフィルムを見る時はいつもヒヤヒヤものでした。僕が録音した音が映画として通用するかどうか分かりませんでしたから。時には長い間、音付きのラッシュを見ないことがあります。その間は、録音した音を誰とも共用していないですから特に不安は大きかったです。

小川プロについて

長嶌菊池さんにとって、小川プロはどんな存在でしたか?

菊池随分大きな質問ですね。小川プロについて聞きたいんだと思いますが、50年前のことで20年近くいました。どの側面から何を云えばいいのか分かりません。記憶は正確ではなく、色々ありますし、何を話しても断片的な話になってしまいますし、その一部の話が全体の話として残るのは本意ではないです。現在は録音という立場で映画制作に携わっています。ここはその話に限ったことでお願いしたいです。スタッフは、学生運動を行っていた人達が多かったです。僕が参加した時は映画の世界でプロとしての経験者は監督の小川さんとカメラマンのたむらさん(注6)だけだったと言ってもいいと思います。学んだことというのは、技術的なことではなく、ものを作る時の基本的なこと、撮影対象への向き合い方とか関わり方、そんなことだったと思います。撮影現場の話としては、カメラマンのたむらさんの影響は大きかったと思います。被写体との関係のあり方、距離感、それに伴うレンズサイズの選択、節度として撮っていけないことなどです。時々ではあったけど、当時そんな話を聞かせて貰ったのが印象的でした。

長嶌小川紳介の発言とされているものを読んでも、いろんなふうにも取れるし、彼のスタンスみたいなことに対して否定的な人も、もちろんいるだろうし、逆に過度に神格化している人もいるだろうし、単純には言い切れない話だと思います。ただ、ああいう作品作りと上映運動を含めた運動体をオーガナイズしていたという点では、日本では唯一の存在だったと思いますが。

菊池まず、僕が総体としての小川プロについて個人的に語ることは適当とは思えません。中心的に活動していた訳でもないし、さっき話したように50年も前のことで記憶もその間、移り変わっていると思います。それに小川プロはスタッフばかりでなく、多く人々の思いや力によって支えられてきました。上映運動、その他の活動を支援してくれた方々、身近な人々、沢山の方々の力で全ての作品は出来上がっています。製作過程ではいろんな活動、出来事があり、僕が知らないことも沢山あり、僕が個人的に話すことでもないです。ただ概略として言えることは、製作資金としては当時、反体制の意識から企業資金には頼らないことが基本的な姿としてありまして、上映、資金調達などの活動は全員が担ってきたと言えると思います。制作資金は自主上映による収益だけではとても間に合うはずもなく、資金調達は常に切迫していました。特に三里塚の時は政治集会、闘争などの撮影にはその日までに合わせなければならず緊迫は続いていました。山形に撮影拠点が移ってからでも長期間の撮影を支えるのは容易ではありませんでした。長期とは13年にわたる製作でした。その間、長編の完成作品は『古屋敷村』と『1000年刻みの日時計』の2本でだけですから製作状況は大変なものでした。山形に撮影拠点を移す際は、「農業しながら映画製作」というスローガンもあった様ですが、我々の農業とは、撮影のためだけのもので、生活や製作活動を支えられるものではありませんでした。僕が山形に入った頃はすでに稲作とその撮影は始まっていました。宿舎では監督含め10名程度のスタッフが一軒家に居住し、日頃一緒にいるわけですから日常的に地元の人との交流についての話や稲作の生育、撮影についてさまざまな話がなされていました。夕食後はその日の話などが続きますが、最終的には小川さん中心の話になり、それが毎晩夜遅くまで続いていた印象です。撮影は毎日あるわけではなく撮影用田んぼの農作業、撮影準備、データ整理などがあり、これはスタッフ全員が同じ様に担っていました。山形での撮影は3、4ヶ月続き、その後、1ヶ月ほどが東京の事務所中心の活動の繰り返しでした。東京ではラッシュ試写、次の撮影準備、資金調達などで、夜は山形と同じように小川さん中心の雑談含めたミーテングが終電近くまで続きました。それは僕が山形の撮影に加わってからでも10年間、同じように繰り返されていました。今から思えば、10年もその状態が続いたものだと思いますが最初から10年も続く予定でもなかったと思います。撮影が1年、2年と随時延長され、その時々は目の前の撮影に追われていて結果的に10年間になったのだと思います。しかし、当時の記憶、感情を正確には思い出せません。次々と追加される新たな撮影プランにスタッフはいつ終わりがあるのか先が見えない状態でした。小川さんの中では山形に腰を据えた、という安心感があってか作品完成について期限というものを気にしていなかったのではないかと思います。長期撮影その他の状況を変えたいとスタッフが思っても撮影が進行していく中でそれを口にする機会を持てなかったという状況でもあったかたと思います。一方、この撮影中心の考え方の中でスタッフの家族への配慮はなく、残された家族は、経済的なこと、子育てのこと、精神的な負担など独り背負っていたという状況でした。個人的に言えば、自分自身も全体的な撮影中心の意識が優先されていたと思います。また製作の協力者について言えば借入金の返済もままならず、結果としての負担ご迷惑をかけてしまいましたが、それについては説明しきれるものではありません。協力してくれた善意に応えきれない痛みは作品の完成というだけでは解消できるものではなく、今でも痛みとして胸に残っています。

小川紳介について

長嶌本人やスタッフのインタビューなどを読むと、小川紳介はあまり撮影現場に立ち会っていなかったという発言(注7)が見られますが、菊池さんから見ていかがでしたか。

菊池僕が撮影現場を経験したのは、三里塚での撮影2作目の『三里塚』という作品で、録音という立場で関わったのは『古屋敷村』(注8)と『1000年刻みの日時計』(注9)だけです。その限りでは監督が現場にいなかったということに違和感を感じたことはありません。撮影スタイルは被写体との関係性。スタッフワーク、現場状況によって決まっていくもので被写体との関係の持ち方、距離の取り方、そうした内容が大事なのではないかと思います。

長嶌この映画制作の方法って、かなり特殊な感じがします。菊池さんは他にもドキュメンタリーを数多く担当されているじゃないですか。その中で、同じような作り方されている監督っていらっしゃいますか?

菊池小川プロを離れてから、幾つかの現場に参加はしましたけど数は多くありません。それに作品よって、撮影内容や制作状況も違いますので、撮影スタイルは異なると思います。形式だけで比較しても意味がないかと思います。

長嶌小川紳介は最初からそういう形を、割と早くからそういうスタイルでやっていたんでしょうか?

菊池僕が直接撮影現場にいた作品以外のことはわかりません。ただ監督が画面に映っている作品もありますし、状況によって違うかと思います。僕が録音として参加した時でもインタビュアーとして現場に来ていたこともありました。

長嶌「インタビューに行きましょう」ってことを決めるのは助監督なんですか?

菊池それは山形での話ですか?はっきり覚えている訳ではないです。様々なコミュニケーションの中で決まったと思います。撮影ですから、誰かが決めたわけで多分監督の発言で決まったのだと思いますが、それくらい形式張ったものなかったという印象です。

長嶌その上で助監督が撮影のセッティングをして、 向こうの人もそれに対して答えてくるわけですね。

菊池そうですね。助監督が進めている話ですからその延長でそのまま撮影に入るということが自然だった様に思います。撮られる側もその方が話しやすいのではないでしょうか。『古屋敷村』で録音の時の話を少ししますね。撮影現場について助監督がインタビューを始めるのですが、先ず挨拶から始まって話が続きます。カメラマンのたむらさんも話に加わりながらカメラを回すタイミングを待っているんです。すでにインタビューの意図はスタッフに共有されているので話の核心は皆わかっている訳です。話が未だ核心に入っていない時カメラは、話が進んでいくのを待っているんです。フィルムの長さにも限りがあるので的確な撮影のタイミングを待っているわけです。そして、やがて話がだんだん核心に近づいて「この辺から」っていう所で、たむらさんのカメラのスイッチが入るんです。16mmフィルムで400ftマガジンでは撮影時間は約11分,録音の6mmテープの1リールは約15分です。話の途中で録音がテープアウトにならないようにカメラを回すタイミングをうかがっていた訳です。録音の方はカメラが回り始めてからテープを回すと最初の音が拾えない。だから録音テープはカメラよりも先に回っていないといけない。心配だからと言ってテープをあまり先にスタートさせると、撮影が続いているのに録音テープが終わってしまう。だから、ここでカメラが回るっていう少し前に録音テープは回さないといけない、僕も「今じゃない、今じゃない」って思いながらたむらさんの様子を見ながら音を聴いているわけです。「あ、そろそろだな」って思って、テープを回し始めるとたむらさんのカメラを回すスイッチが入る。そんな緊張感で撮影していました。たむらさんも話に集中しているのでカメラをスタートさせる合図なんてありません。たまに録音テープのスタートが早すぎた時、今度は止めるタイミングが難しいんです。すでに話は核心近くに入っているわけですからテープは止められません。「早く回して!早く回して!」と思う気持ちとは裏腹にカメラが回らないままテープだけが進んで行く、そんなこともありました。カメラと録音テープのスタートがうまくいった時でも途中でカメラが止まることがあります。たむらさんがここは音だけが録れていれば、画は他の映像を使うと判断した時とかレンズサイズを替えるためにカメラが止まる場合があるわけです。そうするとテープとフィルムの残り時間のバランスは崩れていきます。フィルムが先に終わった時は、足並みを揃えるために大急ぎでテープを新しいのに替えたわけです。テープが巻取りきっていない状態なので、供給側のテープは空になっていない。両側のリールにテープが残ったままの交換ですから、そこにはまたひと工夫が必要でした。撮影に入ると、400ft回しっぱなしということが多かったです。話も撮影に入ると「問わず語り」みたいなことが多かったです。不思議なことに撮られている人も分かるんですかね。僕らは、フィルムの長さ(時間)のことなんて話もしていないし、話す人も特に時間を気にしている風でもありませんでした。でも、なんとなく11分で話が終わるんです。話が終わった瞬間に、コトンと、フィルムアウトになった時にする音が聞こえる、そういう事が何度かありました。偶然だと思うけど、そういう時は一種の達成感がありましたね。小川プロを離れフリーになってからの話ですが、機材がデジタルになって、長時間の撮影、録音が可能になりました。そうすると「いつ大事な話が出てくるかわからないから録音は最初からスタートさせておきましょう」ということになるんですね。それはとても気持ち悪かったです。質問に緊張感がなく、アプローチとしても相手任せになり、対話としての発展がないから話が深まらない。そんな現場は何回かありました。

長嶌フィルム時代、11分ぐらいの枠で「どれを撮ったらいいのか」っていうのを、現場でやっぱり回す人間も、実は撮られている人間も共有しながら「撮影の現場」が作られていったということは、非常に重要な指摘だと思います。

菊池撮影って撮られる側と、撮る側の相互関係だと思います。それがカメラの存在意義だと思います。『古屋敷村』の時ですが、撮影が終わって、ある程度編集したものを被写体になった人に見て貰うことがありました。そうすると今まで出てこなかった話が色々出てくることがあるんですね。もっと言いたかったこととか、自分の話に触発されたことか、そうするとまた撮影するということがありました。

長嶌できあがった作品は、当然のことながら「小川紳介の作品」だと世界的にも国内的に思われているわけじゃないですか。しかし実際は、小川紳介は作戦司令官みたいな形で、事前の綿密な撮影対象者との対話とかディスカッションをすごく詰めてやった上で、現場には基本、行かない。撮影現場は助監督が仕切る。後、やっぱり大きいのはカメラマンのたむらさんで、「たむらさんがどこでカメラを回すのか」に委ねられているというのは非常に特殊な映画作りだと感じます。そして、小川紳介はラッシュしか観ない。ラッシュを徹底的に観て、そこからどう撮影を進めていくかを決めて作っていく。もちろん、劇映画ではなくドキュメンタリー映画ですが、やはり、普通に考える「監督のイメージ」とは異なると感じます。

菊池そうなんですか。むしろ僕には違和感はありませんでした。それに、前にも言った様に、そういう撮影の形式よりも撮影スタッフと被写体との関係の持ち方が大事なんだと思います。僕が経験した三里塚や山形での作品についてですが、ラッシュ後に話されるのはラッシュから何が見えたものとか、そこから何を考えるべきかと言うことです。次の撮影の段取りとか、撮影の指図なんかではありません。「監督はラッシュしか見ない」と言うことではなく、普段は地元、被写体の人たちとの交流はありましたし、事前にいろんな情報は得た上での普通のラッシュ試写です。今から思うことですが、その方がスタッフが自由に動きやすいとか、ラッシュで現場を見た方が現場が見えやすいとか、そういうことではなかったかと思います。次の現場を指図する為にラッシュを見るわけではないです。逆に監督がいなければ、動けないとか、むしろ、現場に行っても監督の指図を待っているとか、そういう撮影ってどうなのかと思います。監督の指示だけでは撮れないものもあると思います。確かに、ラッシュ見た後の監督の意見は厳しいものがあったりしましたが、それはラッシュそのものについての話で、現場に監督がいる。いる、いない話とは別な話だと思います。また、「カメラを回すタイミングはたむらさんに一任された」と言われましたが、現場への向かう意識は、演出部、助監督など全員に共有されたことで、たむらさん一人が現場を引っ張っていたわけでもないです。たむらさんの言いなりで動いていた訳ではないです。むしろたむらさんは「撮影ってカメラマン一人が撮るんじゃなく、スタッフ全体で撮るのものなんだ」と口癖のように言っていました。これは劇映画の世界に行ってからでも言っていました。自分の撮影が褒められたりすると、よくこの言葉を添えていました。小川プロには長い年月の中、多くの作品がありました。それぞれ時代も違えば制作状況も違っています。その中でいくつものエピソードがあります。そのエピソードを繋ぎ合わせれば、どんな物語にもなってしまうと思います。それをもって、小川プロを類型化する必要はないと思います。僕はここで自分の体験から小川プロ論、小川紳介論をするつもりはないです。単なる僕の体験、感じ方を言っているだけです。

青山真治について

長嶌青山さん(注10)の作品で言うと、菊池さんが一番最初に参加したのは『路地へ ・・・中上健次の残したフィルム』(以下、『路地へ』)(注11)ですか?

菊池撮影は『路地へ』が最初だけど、その直後に『ユリイカ』(注12)の撮影があって、仕上げは『ユリイカ』が先になりました。

長嶌出会いはどんなきっかけで?

菊池その前にオムニバス短編『TAMPEN』(注13)の撮影に青山さんが来て、そこで初めて会いました。その後、『路地へ』と『ユリイカ』に続きますが、細かい流れは覚えていません。ただ、ある日突然『ユリイカ』の台本がポンと送られてきたのは覚えています。

長嶌そうなんですか。

菊池台本が送られてきて、その後、誰からも何も話がなかったし「これ、なんだろう?」と思っていたんです。仕事の依頼なんて思ってもいなかったです。すると何日か後に打ち合わせの連絡があり、そこで初めて仕事の要請だったことを知った次第です。

長嶌青山さんは音楽家でもあるし、音には細かかったという人が多いと思うのですが。

菊池それはよく言われることです。しかし、そういうことじゃないですよね、現場との向かい合い方っていうんですかね。どの視点からの音がとか、そういうことが関心事だったと思います。その考え方に近いことは経験してきていたので、青山さんの提案や注文については納得的でイメージも発展しやすかったです。勿論、他にもそういう監督はいましたが、青山さんとは長かったので青山さんについての話になりますがいわゆる「音に細かい」ってことではなかったですね。現場は絵に描いたようには存在しないし、何が起こるかわかりません。その現実への対応が興味深かったです。それは現場に妥協すると言う意味ではなく、見落としそうなものの発見、解釈とかです。現場の変化の取り入れ方っていうんですかね。解釈の仕方とか、対象を見る時の視点のあり方とか、とても興味深かったです。その意味では青山さんは最高のドキュメンタリストだったと僕は思っています。

松井黒沢清(注14)の『大いなる幻影』(注15)も菊池さんですね。青山さんもファシストたちの一人として出演しています。そのころ菊池さんを意識していたんじゃないですか?

菊池それは僕には分かりません。青山さんとは当時、話をする機会ありませんでした。なぜ、僕が『ユリイカ』に加わったのか、それについて本人に聞いたこともありません。

松井青山さんと仕事を始める時期に黒沢清さん、諏訪敦彦さん(注16)とも仕事をしています。当時、みんなが菊池さんの音に惹かれていたのかもしれません。

菊池それはないと思います。結果的に監督に恵まれたと思いますけど、たまたま何かの偶然だったと思います。『ユリイカ』『路地へ』以降は青山さんとの仕事が長く続きました。青山さんは詳細なことは知らなかったと思いますが、スタッフの関係性について興味は持っていたのかなと思うことがありました。ある時、青山さんがユーロスペースの堀越さん(注17)と話をしていた時になんですが、「助手を含めた全てのスタッフの性格、生活状況等、性格など全部知った上で映画を作ってみたい」と言っていたことがありました。青山さんはコミュニケーションを単なる意味の伝達ではなく、時間の共有ということに気を遣っていたと思いますが、「スタッフを理解する」という意味を技術的側面だけでなく、その人の在り方を丸ごと受け入れるっていうのは、興味深かったです。

長嶌それは私も聞きました。「みんなが生活できるシステムを作りたい」ということを昔から言ってました。

松井「そういう社会的に理想的な関係が成立した時にできる作品」を青山さんは信じていたんでしょうか?

菊池それは、スタッフとの関係の持ち方の話であって、今の映画状況において「社会的に理想的な関係が成立」することを信じていたわけではないと思います。確かに青山さんが「自分に仕事がもっと多ければスタッフも楽になるだろう」とは言っていましたけど「経済的システム」とは別問題だったと思います。青山さんが気にしていたのは、スタッフとの関係のあり方だったと思います。そしてもう一つ、作ること、見せることの関係性も気にしていた様に思います。70年代80年代には、映画制作者には作ること、見せることなどいろんな試みがあったけど、それは今に何もつながっていない気がします。今の社会状況で自分が作りたいという映画の限界みたいのは感じていたのではないかと思います。ある作品の初日舞台挨拶の後、僕に「いつまで仕事やるつもり?菊池さんが引退するなら俺もやめてもいいんだけど・・・」なんて引退勧告のような冗談を言ったことがありました。今にして思えば、それは青山さん自身、自分が目指すものに対して希望が持てないという意味だったのかなと勝手に解釈しています。

撮影、録音機材の変遷について

菊池フィルムの時代は、同期撮影の為にはカメラも録音機も高額な機材が必要で、同期撮影が出来ないまま撮影された作品はあります。僕が参加する以前の作品ですが、例えば『圧殺の森』なんかでは、全くシンクロしていません。しかし、今はシンクロでないと作品としてはネガティブに受け取られていますが、果たしてそうだろうかと思います。もしその作品がシンクロで撮影されていたらどうなんだろうと思ったことがありました。あの迫力というか熱量がシンクロ撮影で定着できたんだろうかと。映像は映像で、音は音で収録し構成していったから成立したのではないかと思います。映像と音のそれぞれの独自性という意味で興味深いと思いました。その経験があったからこそシンクロになった時でも映像と音の関係の意識は高かったのではないかと思います。

長嶌改めて『圧殺の森』(注18)を見たんですけど確かにショットが短いんですよね、異様に。『圧殺の森』で使用されたカメラ、アリフレックス(Arriflex 16ST)は100ftなので最長3分ですね。すごく短いショットの連続で、ある種、エイゼンシュテイン的なモンタージュっていうか、それに違う場所の撮られた音声が重ねていくっていうのが、今観るとすごく面白い感じがしました。ただ、小川さんのインタビューやたむらさんのインタビューを読んでもシンクロに対する渇望みたいなものがずっと書かれていますね。小川プロで使用するカメラがアリフレックスは100ftで3分、次にボリュー(Beaulieu R16)は200ftで6分、そしてエクレール(Eclair NPR)は400ftで11分と一回に撮影できる長さが3分から11分まで伸びていったことで映画自体が変わっていったという点は興味深いです。小川紳介のインタビューで「長く回せるんだったらいくらでも長く回したい」という発言があって、機材における制限が図らず生んだ表現みたいなことと、その後、長時間の撮影、音声とのシンクロが可能なカメラを導入することによって長回しができるようになって「違う表現」が生まれ、逆説にですが、シンクロできないことによって製作者の意図とは違う形で生まれた映像と音のぶつかり合い、せめぎ合いは失われてしまったとも言えると思います。『三里塚の夏』でも、特にラストシーンの農婦の音声もずれていることによって、彼女の顔と力強さが強調された感じがしました。被写体たちはすごく不本意だったかもしれないし、「今の感覚で観ると新鮮なだけ」なのかもしれませんが、やはり非常に強い映画表現だと思います。

菊池アリフレックスでも400ftマガジンは装着できて11分の撮影は可能です。『圧殺の森』や『三里塚の夏』の時にどのようなカメラ、撮影体制であったのか僕は知りません。非同期撮影だったというのは、単に経済的理由だったのだろうと想像します。ボリューを手に入れたのは、撮影時間の延長というもあったろうけど、非同期から同期撮影への関心だったのではないかと思いますが、確かなことはわかりません。それと、長嶌さんの言われた「シンクロできないことによって製作者の意図とは違う形で生まれた映像と音のぶつかり合い、せめぎ合いは失われてしまったとも言える」との意見に対しては、補足が必要かと思います。ここで言う映像と音のぶつかり合い、せめぎ合いとはお互いの一つのメッセージのぶつかり合いと僕は受け止めています。シンクロになって音は映像に忠実になったというだけのことではなく、映像だけでは想像できなかった、思いがけない世界が付与されたのだと思います。音がメッセージ性から多様な世界へと導く様になり映像と音との関係は大きく変わったのだと思います。フレームの中だけでしかイメージできなかったことを同時にもう一つの現実を取り込むことになったのではないかと思います。三里塚の空港建設闘争の最中、農民と機動隊のぶつかり合いの中、フレームの外に音として何が起きているのかに注意をはらっての撮影とか、静かな部落集会の中、映像外の音へ注意を向けたカメラワークにも音が撮影に影響を与えていました。映像に音の要素を取り込もうとたむらさんはトランスミッターがまだ一般的でなかった時に自作し、録音機から無線で音を飛ばしラジオでそれを聴きながらの撮影を行っていました。当時、録音を担当した福田、湯本は映像フレームに追従することなく音の世界を追っていましたし、その結果、自由なカメラワークが可能になったと聞いています。このような特殊な関係でなくても、映像には多様な音が入り込んできます。非同期撮影から同期撮影になって、映像と音の関係が大きく変わったのだと思います。シンクロ撮影になって「映像と音のぶつかり合い、せめぎ合いは失われてしまった」のではなく、形を変えたのだと思う。それは映像に対する音のあり方の発展と言っていいと思います。カメラがエクレールの400ftマガジンでの撮影になる前に、作品『三里塚』の時にボリュー、200ftが装填できるものになりましたが、これは完全なシンクロではなかったと聞いています。

長嶌完全ではない?

菊池ボリューはフランスのカメラで撮影速度が1秒25フレームで、日本の24フームレの映写速度には合わないので日本でそのままではシンクロできません。今から考えられる対応策はいくつか考えられるけど、僕は当時録音部でもなかったし、記憶も曖昧なので、曖昧なことは言えません。

長嶌菊池さんが小川プロで録音を始められた時はもうシンクロになっていたんですか?

菊池僕が録音を始めたのは、撮影拠点が山形に移ってからです.その時はすでにシンクロ撮影でした。それ以前の三里塚の撮影の時も、エクレールでシンクロ撮影は行われていました。

長嶌マイクは何を使ったんですか?

菊池山形の撮影ではマイクはSONYのECM23というコンデンサーマイクにたむらさん手製のブースター(増幅アンプ)を組み合わせて使っていました。無理やりゲインをあげているので風にはめっぽう弱く、風防などのアクセサリーもありませんでした。元々、このマイクは屋外で使うものではありません。ガンマイクはナショナルのものでしたが型番とか覚えていません。これもアクセサリーとしてのカゴ式の風防設備がなく、ウレタン風防をマイクに被せるだけのものでした。だからフィールドでの風に耐えられるものではありません。後で知ったのですが風防の工夫の一つとしてマイク本体に詰め物をしていたので音質は悪く、きちんとした風対策にはなっていませんでした。でも、時々は使っていたと思いますが結局ECM23を使っていたことが多かったと思います『古屋敷村』の仕上げの時に浅沼幸一さんという方がスタジオミキサーとして加わってくれて、その時にゼンハイザーのマイクのことを初めて聞きました。それで代理店からゼンハイザーのマイク( Sennheiser MKH 415)と風防一式をデモ機として借りて使ってみたんです。すると今まで使っていたマイクと比べものになりません。遠くの細かい音までクリアに聞こえて、風も驚くほど防げてとても驚きました。今にして思えば、当時使っていたマイク風防は何の知識も持たないままに自分たちで工夫して作ったものです。だから比較になりません。風を遮るとは空気を遮るわけで、音の通りも悪くなります。素人の工夫ではうまくいくものではなかったです。ゼンハイザーのマイクを最初に使った時はこんなマイクが世の中にあるのかとその驚きは衝撃的でした。でもそれは『1000年刻みの日時計』、山形での撮影が終わる頃のことでした。でもそのマイクは、今では映画学校の学生が普通に使っているマイクです。

長嶌レコーダーは?

菊池僕が録音を始めた時は、ナグラⅢ型(注19)が2台あって、一台はクデルスキー社のもの、もう1台はソニーナグラって呼んでいていたものがありました。一時期ソニーがナグラの輸入元になっていたことがあったという話を聞いたことがありますが確かなことは分かりません。撮影現場ではクデルスキー社のものを使っていましたが、小川プロが山形に撮影拠点を移した頃、東京の事務所ではマンションの一室を退出時に現状復帰を約束に小さなスタジオにしていたんです。部屋にはナグラと、同期を取るためSLO(注20)、マグナシンクというシネコーダー(注21)が一台、6mmテープレコーダー(SONY TC707)が2台、コンソールミキサー、映写室設備があり、別の部屋は編集室になっていました。編集からダビングまでが一通りできる体制ができていて,これは「記録映材社」と言うスタジオを立ち上げて、外部への貸し出しも含めて独自の運営も図っていたようです。しかし、結局は小川プロだけのスタジオになっていきました。でもその設備があったことで編集、音の作業に十分な時間を費やす事ができて、その後のポスプロの作業を考えれば、そのスタジオの働きはとても大きい役割を果たしたと思います。

長嶌菊池さんが実際に録音ということで参加するのは『古屋敷村』からになりますが、その時はもうナグラはクリスタル(水晶発振機でモーターの回転数を固定してしまう仕組み)で同期してたんですか?

菊池いえ、ナグラⅢ型ですから、カメラからパイロット信号を受け、その信号で同期をとっていました。だから撮影中は、必ずパイロット信号を受けるためのケーブルでつなぐ必要がありました。撮影の時は常にパイロットケーブを繋いでいました。それと、ナグラIV 型(4.2L)でも、モーターがクリスタルロックされていたわけではなく、クリスタル信号がナグラの内部処理で記録されていただけです。

長嶌佐藤真の『阿賀に生きる』(注22)では「録音協力」のクレジットですね。

菊池監督の佐藤(真)君からは撮影前から色々相談を受けていました。撮影システムのことや撮影プランのことなどですね。ちょうどその頃、ぼくはドイツのクルーと仕事していて録音機、マイクの調達に協力してもらいました。スタッフに関しては鈴木彰二君が録音担当でしたが、全く経験がなかったので現場の録音や、機材についての説明をしました。撮影が終わってポスプロの時には彼から現場の細かな状況を聞かせて貰って、音の構成に役立たせて貰いました。フレーム外の背景音を多用したので、彼の説明は不可欠で結構時間はかけまして、結果としてはリアルなものに出来上がりました。最終ミックスの時に久保田さんに入ってもらったのでスタッフタイトルは「整音 久保田幸雄」となり、僕のタイトルをどうするかとなったんです。「サウンドデザイン」や「録音設計」と言う考えもありましたが、当時はなんか仰々しい感じがしていたし、関わりが音の仕上げのことだけではなかったので「録音協力」ということにしたんです。

長嶌現場録音に参加は?

菊池録音には参加はしていません。

長嶌音の整理はPro Tools(注23)で?

菊池いえ、まだ、使っていませんでした。年代的にもどうだったんですかね。その頃、全く僕の意識にはありませんでした。仕込み、フィルムダビングスタジオとしては横浜の青葉台にカメラマンの高岩仁さんという方が作られた小さなスタジオがあったんです。ご自身の敷地内にプレハブを建て、作られたものです。高岩さんご自身でも反戦の映画などを作られていて、そのスタジオは自主映画を作る人たちにも開放されていたので、当時そのスタジオに助けられた人たちは多かったと思います。

長嶌Pro Toolsは『ユリイカ』で始めたんですか?

菊池いや、その前に Pro Tools を使い始めていたけど、その頃はそもそもパソコンがまだ珍しい頃で、パソコンに触れることも初めてで戸惑いも多かったです。

長嶌購入の動機は何だったんですか?

菊池購入動機と言っても、今にして思えば、単純にいろんなことが便利だったですよね。シネコーダー、6mmテープレコーダー、映写機など、沢山の機材が全て内蔵されているようなものです。音の編集も簡単に処理出来てしまうし当時は誰でも欲しかったと思います。当時は便利という感覚を超えていました。それで表現的にも可能性が広がったわけですが、経済性や便利さが注目されていて表現上の可能性について語られるのは少なかった印象的があります。例えば、熟練されたスタジオミキシングの技術が奪われるとか、削減されるスタジオ経費はどこにいくのかとか、個人所有の機材系費用のこととかそんな話が多く、マルチレコーデングによる表現上の可能性についての話はあまり聞きませんでした。アナログの時は細かな音は排除され、ある程度単純化する必要があったので日常に起こる様々な音のへ関心は少なかったのだと思います。しかし、Pro Toolsが出始めて音の編集が格段に便利になり、細かな音への表現も自由になりました。同時に、その頃、一般的にも音への関心に変化が起きていた時期でもあったのではないかと思います。この頃、日常耳にする音への関心の高まりがあり、決められた価値観への追従への反発なのでしょうか。表現としての音が一つの意味に縛られない自由さ、そういうことを望んでいた時期でもあった様に思います。一つの価値観からの解放と言うんですかね。Pro Toolsがそれを意図したかどうかはわかりませんが結果としてその時代に適合した様に思います。社会意識と録音機材の関係を考えると、シンクロが普及する以前は、時代的にイデオロギーの対立の時にあって、音が映像の説明から離れると言っても映像との関係はメッセージ性の対立の様に思えていました。やがてシンクロが普及した頃は、単一の価値観から、現実の多様さに目が向く様になった時代だった様に思います。意図や観念を超えて現実をそのまま受け入れてみようと言うことになって、作為を超えたそのままの音が重要視される時代だったかと思います。映像もロングショットが多くなって、限定的、意図的なショットが避けられて、時間もワンカットで長回しというのが増えた時期でもあった様に思います。それが現実を丸ごと取り入れるという意味だったと思います。シンクロが客観性を証明するものと考えられたのかと思います。しかし、その後、目に見えている現実だけが真実かという疑いが生じ、現実の奥にあるもう一つの現実、もう一つの別な世界に関心が向いた時に、録音機材はマルチレコーデングへ発展してきた様に思えます。時代の社会意識の変化と録音機材の発展経過との関連は単なる偶然なのかも知れないけど、何か関連がある様に思えているんです。

長嶌Pro Toolsの作業で映像はベータカム(注24)で作業していたんですか?

菊池いえ、VHS、Hi-8など民生機のビデオテープの音声トラックにタイムコードを入れてもらってその信号を受けて映像と同期させていました。

長嶌Pro Tools Projectは同時発音数が8でオーディオ・アウトも8でした。『ユリイカ』の整音はPro Tools Projectを使用されたと聞いていますが、時期としてはかなり早かったのではないでしょうか。

菊池早かったかどうかは分かりませんが、他の皆さんも使い始めた頃だったと思います。ただ、パソコンもPro Toolsも高価だったし、僕みたいな者には簡単に購入できるものではなかったです。友人、知人を誘って共同で購入しようと計画したんですが、実際に使い始めてみると確かに数人で使いまわすというものでもなく、時間をかけてそれぞれの方々にお金を返却したという経緯がありました。そういうことを考えると何としても欲しかったのだと思います。同時発音数が8ということについてですが、シンプルな言い方をすれば、シネコーダーやテープレコーダーが同時に8台も動かせるのと同じですから当時としてはとても便利に感じていました。

長嶌当時の現場録音機材はFOSTEX PD-6(注25)でしたか?

菊池当時って、Pro Toolsを使い始めた頃のことですか?その頃は2トラックのDAT(注26)のFOSTEXのPD-4を使っていました。他の人達は別な機材を使っていただろうと思います。それが一般的だったと言うことではないです。それまで現場録音はナグラでモノミックスでしたので2トラックになってガンマイクとワイヤレスマイクを分けて録音できたのでそれだけでも便利だと思っていました。しかしやがて時代と共に撮影の仕方も変わって、2トラックミックスでは現場が対応出来なくなりました。セリフのある登場人物が多くなったこと、大事なセリフの時にも画角は広いままでマイクが届かないという様に撮影の仕方が変りました。それはワイヤレスマイクの普及があった為だと思います。撮影の変化は撮影対象への向き合い方の考えも変わったのだろうと思います。更に撮影方法としては2カメ、3カメでヨリとヒキを同時に撮るようになり,カメラ奥とカメラ前のセリフを同時に撮るようになったんですね。そうすると音が被写体との位置関係を保つのが無理になってきて多トラックの録音が必要になってきたんです。編集が終わってみないとそのカットがヒキで使われるのか、ヨリで使われるのかがわからなくなったんです。僕が6トラック録音のFOSTEXのPD-6という,レコーダーを使う様になったのは『レイクサイドマーダーケース』(注27)という作品の時でした。

長嶌現場録音用のミキサーは何を使ってたんですか?

菊池『ユリイカ』の時は、シグマの4チャンネルミキサーです。その後、同じシグマの8チャンネルのミキサーに変わっていきました。PD-6を使うようになって、編集部には現場ミックスの2トラックのものを送って、音の整理作業は6トラックのものから現場を再現する形をとっていました。その後、レコーダーはSOUND DEVICES 788T(注28)とコントローラーとしてCL9を使っていました。その機材を使うようになったのはどの作品からだったかハッキリした記憶はありませんが他の方々に比べてだいぶ遅かったと思います。

『ニッポン国 古屋敷村』について

長嶌「Flower Wild」(注29)というwebインタビューで「『1000年刻みの日時計』の田植えの音の話は嘘だ」って言われてました。整音の久保田幸雄さんの本には「助手の菊池君とたむら君を呼んでやった」と書かれていましたが。(注30)

菊池その録音の時、僕は盲腸になって入院していて録音には参加していません。スタジオに泥水を持ち込んで録音したがうまくできなかったという話は後で聞きました。映画で使っている音は、僕が実際に田んぼで録音した6mmテープを編集して作ったものです。その過程はその「Flower Wild」で説明している通りです。小川さんはいつも現場の話を誇張して話し、話すたびにその誇張が大きくなる傾向がありました。ですからこの話を聞いた時にその一種で、話を分かりやすくする為にその様な言い方になったのかなと思っていました。だから久保田さんも同じことかなと思っていてあまり気にとめませんでした。久保田さんがその様に書いた真意については僕が説明ができることはありません。むしろ、興味深いのはその「Flower Wild」で僕が違うと発言し、その説明したのに対して改めてまた同じ質問があることです。この様な場合において真実は存在するのかだろうかということです。事実を理解するためには「拠り所」や「分かりやすさ」が必要なんだろうと思います。「分かりやすさ」は話の集約ですから、細かい事実が削ぎ落とされ、時には正確さは薄れ、一つの「物語」へと変形していくのだと思います。話す人は、無意識に聞く人に分かりやすいように話をします。だから事実はどの様にも変形していく可能性を持っているのだろうと思います。そうすると客観的事実なんてあるのだろうかと思います。事実はアプローチによって変化していきますからアプローチした人の中で解釈された事が「物語」として残るだろうかと思います。あの田植えのシーンの撮影は、ベルハウエルの超小型カメラで撮ったものです。大きさは手のひらに乗るようなものでしたが型番などは分かりません。そのカメラはたむらさんが何処かで見つけてきたもので、元々軍用に使われていたものと聞いたことがあります。フィルムは30ftが装填できました。それを長いマイク竿の先につけての撮影でシンクロカメラでもなくカメラノイズも大きく、同期録音ができるものではありません。ですから別の時に録音した6mmテープを編集して作りました。編集としては、先ずフィルムを編集機で何秒何フレームの所で稲を挿した、足が抜けたとか映像を編集機で全部記録して、その記録に基づいて6mmテープを編集していきました。録音テープは1秒間、19cm進みますから、19cmを24分割するとそれがフィルムの1フレームに当たります。それで映像に合う音を貼り付けていくわけです。でも実際の音は、足音、稲を植える時の水音と言ってもそれぞれ音のニュアンスは違いますから画に合わせて音を選り分けて行くわけですね。一度編集が終わったら映写映像に合わせてみて修正という形で作業を進めました。

長嶌シネテープ(映画音声用のフィルムと同じ形の磁気テープ)は使ってないないんですね。

菊池はい、シネコーダーは一台しかありませんでしたし、編集にはシネテープでは作業になりません。何本かの音を同時に映写の画面に合わせてみて何度も修正を繰り返して作るという作業ですからシネテープの用途としては向いてないです。最終的にミックスした音はシネテープには録音したのだろうと思います。

松井「Flower Wild」のインタビューの中で、山形で何日間もずっと録音していたら、学校の校内放送が聞こえてきたという話がありましたね。

菊池それは、何も聞こえない一面雪に覆われた野畑に録音に出かけていた時の話ですね。突然、畑の奥の方から中学校のチャイムと一緒に放送部の女子学生の声が聞こえてきたんです。「ストーブの周りに男子だけが集まって、女子がストーブのところに行けません」という内容のものだったと思います。その偶然に聞こえた音と風景の出会いが面白くてその話をしたと思います。

松井以前話されていた、「啓蟄」の話ということですか?

菊池啓蟄の話は何も聞こえない雪の畑の中で何日か録音を続けていると、少しずつ、遠くに人の声がかすかに聞こえ始め、春に向けての農作業の準備の音、人の声が聞こえ始めたという話ですね、丁度、啓蟄の時期だったので人も春が近づくと蠢くんだと面白く感じたという話です。何か一つの音に触れれば、関心はそこに向かいますから小さい音もよく聞こえるという話です。「Flower Wild」では、同じブロックで話したと思いますが、中学校の校内放送と啓蟄の話は別なこととして話したと記憶しています。正確には覚えていません。

松井「人の耳で聞こえる」のと「録音できる」ことは別のことなんですか?

菊池いえ、録音できる音の話です。僕が言ったのは、感じ方の問題で精神的な話をしたつもりはありません。

松井毎日録音していたわけですか?

菊池これも「Flower Wild」からの話だと思いますがどの文脈で「毎日録音していた」と話をしたのか覚えていませんが、それは編集期間中に編集が始まる前の午前中に録音機を持って出かける事が多かった、その時の話ですね。何も聞こえなければ、何か聞こえないかなって、そう言う日が何日か続いたと言う意味です。『古屋敷村』も『1000年刻みの日時計』も、編集には一年くらいかけていましたから時間はあったのでそういうことが可能でした。

松井映画制作と生活が完全に一緒になっているわけですね。

菊池我々が山形にいたのは映画制作の生活の為でした。撮影の他に個人的な生活が別にあったわけではないです。だから映画制作と生活が一緒になっているという言い方はどうなんでしょう、成立しないです。確かに2反4畝の田んぼを借りて稲作も行っていましたが、それは生活の為のものではなく、撮影対象のものでした。当時、田んぼの撮影は、天候の状態、稲の生育具合とか毎日のよう撮影していたことが、ある時、録音ノートを整理していてそのことに気がついたことがあったんです。日常的には毎日の様に撮影していた印象はなかったのですがね。

松井そこでも音を録るわけですか?

菊池撮影があれば録音もしますし、撮影がない時も録音するものを探して録音していた様に思います。撮影には同録のものばかりではありません。同録以外の映像にも何らかの音で埋める必要があると思っていたんですね。経験が少ないからその映像にあてる音に何がいいのか確信を持てなくて色々録ってしました。風景から感じる音とかですね。ところが同じ場所で録っても日によって、時間によって音が違うし。録った音が妥当なのかどうか確信が持てず不安を抱えたまま録音を続けていた気がします。

長嶌その経験は大きいですよね。その時に聴いた音の体験は。

菊池一応「何が聞こえてくるかな」って考えるわけです。そうなってくると「聞こえてくる音をどういう所に、どう使ったらいいのかな」と無意識のうちに思うわけですね。音のない映像にどのように音をつけるのかは自分なりに考えなければなりませんでした。とにかく、シンクロ的に感じられる様な音を考えていたのかと思います。川の流れ、風に揺れる木の葉や稲、その他映像から感じるものと、実際に録音して聞こえるものは違うし、自分なりに工夫しなければならなかったんですね。だから無駄な録音も多かったと思います。だけど一見無駄と思える音の中に思いもよらない音があったりします。その音と目に見えるものとの対比が面白かったりするんですね。だからそれらしい音ってばかりが音でないと少しずつ思い始めました。「もう一つの現実」が存在する、そんな事を体験し、考えるきっかけだったのかなと思います。

『1000年刻みの日時計 ― 牧野村物語』について

長嶌『古屋敷村』が終わって、すぐに『1000年刻み』に参加したんですか?

菊池いえ、元々、山形で農業について撮影しているときに、冷害に見舞われた年があって一時的に『古屋敷村』の撮影が始まって、その作品完成後には上映活動が始まり、それが一段落してから前からの撮影が継続した形になったんです。それが何年か続いて『1000年刻みの日時計』になったんです。『古屋敷村』と『1000年刻みの日時計』は最初から別物として計画されていた訳ではありません。それだって『古屋敷村』の後、1年くらいの予定だったと思いますがいろいろあって『1000年刻みの日時計』の撮影が終了するまでに何年かかかりました。前にも言いましたが、稲の生育は1年に一回です。生育のある時期を撮影して、そのフィルムを現像所に出して、戻ってきてラッシュを見るまでに数日かかります。撮影結果が思う様でなかったり新しいアイデアが出たりして再撮影となると翌年まで待たねばなりませんでした。稲の生育期間は部分部分で見るとその期間は短いです。その結果として翌年、また翌年となって撮影が長期になったと記憶しています。しかし、今考えると小川さんには撮影が延びることの焦りは無く、ラッシュの結果に関係なく何年かは続ける意識はあったのかと思います。

長嶌菊池さんは『1000年刻み』で部分的ではあれど、初めて劇映画の録音を担当されましたよね。出演者も土方巽、宮下順子、田村高廣、河原崎長一郎、石橋蓮司、島田正吾などのプロの俳優、舞踏家の土方巽、そして牧野村の住人と多岐に渡っています。

菊池撮影もライテングなども大掛かりで戸惑うこともありましたが、出演者が地元の農民であれプロの俳優さんであれ録音することにその違いはないです。作品を見て貰えば分かるように撮影や録音にそんなに複雑なことが行われていたわけでないです。しかし、小川プロのメンバーだけで劇映画撮影の体制が取れませんから劇映画撮影に必要な専門的なスタッフ、応援の人達に加わってもらっています。その結果、何とかなったんだと思ったと記憶しています。撮影、照明、その他応援の人に入ってもらいましたが録音としてはプロの久保田幸雄さんに来ていただきました。それまで録音の専門の方から話を聞いたことがなかったので今まで抱えていた不安を様々質問させてもらい、やっと録音の人に話を聞けたと安心したものです。中でも幾つかの質問の応えてくれた言葉に「正しいことは菊池さんが考えたこと、それが一番正しいことなんです」との一言は金言でした。

長嶌改めて『1000年刻み』を観て、やっぱりものすごくアンバランスな作品だと思いました。小川紳介の野心はすごく分かるんだけど、まだまだ未消化で、亡くならなかったらもっとあの方向の発展形みたいな作品を作ったのではないかと思います。映画音響についても『古屋敷村』の インタビューで「これまでは同時録音への渇望があったんだけど〝田んぼの音の経験〟などがあって、撮影後に音を付けることに〝映画における音のリアリティ〟をちょっと感じてる」という発言があったんですよね。時系列に彼の発言を追っていくと彼の中でも「音についての意識変革」みたいなものがあったんだろうと思います。

菊池そうなんですか。小川さんの映像と音との関係における意識は一貫していたように思います。小川さんは元々の考えていたことが『1000年刻みの日時計』で少しは実現出来たのでそれを分かりやすく説明しただけのように思います。同時録音への憧れとは、その頃は誰でも思っていたのではないでしょうか。シンクロの意味は単なる事実の証明、裏付けという考え方ではなく、「人の意識を超えた現実」をそのまま取り込むと言う興味だったと思います。シンクロでは取り込めない音を後から加えるのは、『古屋敷村』でもやっていたし、現場に基づいているなら現実の発展形と考えられると思います。つまりもう一つの現実ということですね。シンクロへの憧れも、音を加えていくことも同じ考え方に過ぎないと思います。小川さんが作品ごとに説明していくといろんな説明の仕方になって、考えの根本は何も変わっていないと、僕は思っています。『1000年刻み』が終わった後ぐらいじゃないかなと思うけど、小川さんはマルチスクリーンの映画を考えていて、映像の構成、編集を考えたりしてスクリーンまで作り始めたことがありました。だけど何の都合だったか分かりませんが程なく止めて完成までは行きませんでした。その後、佐藤(真)君も同じ様なことをやった事がありました。ポレポレ東中野でのことですが映写室の16mmフィルムの映写機の隣に8mmフィルムの映写機2台を置いて、スクリーンは左右の白い壁を利用して別々の作品を3面同時に映写したんです。映像の物語性を壊して全体で一つの世界観を出したいということだったのだと思います。僕は三つの映像を見ながら文字通りライブで音の出し入れをしていました。

長嶌『1000年刻み』はドキュメンタリーとフィクションが混交していく映画でしたが、その前の時点で、三面スクリーン自体は新しい試みではないですが、当時、小川さんがそういうことを考えていたというのは非常に興味深い話です。

菊池いえ、『1000年刻みの日時計』の後だったと思います。

映像の焦点、音の焦点

松井「音の焦点と映像の焦点」(『東京藝術大学大学院映像研究科紀要』Vol.3 2013年)の際にも考えさせられたことですが、映像の表現と、音の表現の一致とそうでない点を菊池さんはどのように捉えているのか、もう少し伺いたいです。

菊池申し訳ないけど、10年以上前に語ったことで、どんな言い方したのか覚えていません。今言えることは映像と音は別な表現形態なので、まず音の表現について話をしてみます。人はいろんな音に取り囲まれて生活していますが普段は無意識のうちに音を選別して全体の一部しか聞いていません。例えば、どんな瞬間でも立ち止まって音だけに集中してみると、そこには様々な音があることに気づきます。人は特定の音だけに関心を持ち「特定の物語」にいると思います。音を多様な世界に戻すことでリアルな現実が見えてくるのだと思います。その時にもう一つの現実が見えてくるのではないかと思います。その時に被写体との距離感、眼差しのあり方が考えられるのだろうと思います。誰の主観でその音を聞くのか、どの様な眼差しで対象者に接するのか、映像に視点があるように音にも聴点というのがあるのだと思います。言葉を変えて言えば、人をどの感情で見るのではなく、人がどの場所にいるのか、どの場所からその人を見るのか、それが大事なのではないかと思うんです。その時の音が登場人物の感情の解釈を広げてくれるのではないかと思います。

松井菊地さんは、本来効果部が担当する状況音(環境音、アンビエンス)や効果音にも関わっていきますよね?

菊池効果専門の方々の仕事が客観的創造性と専門的技術で映画を豊かにしていることは確かなことだとは思います。しかし僕はそれを一人で行うのが自然だったというだけのことです。現場の風景、空気感などから感じたことを他の方に伝えるのが僕にとっては難しかったのと、青山さんも現場の感情をそのまま持ち込むことを好んだので、そういうスタイルになりました。勿論、表現に於いて現場を知らない人が現場に引きずられない冷静な判断ってこともあるけどそうした複眼の目を持って一人でやるってことも一つの方法かと思ったのです。後から加わる状況音でも、そこで感じたものは、シンクロで録音した音と僕の中では一緒だったんです。その周りの音を含めて一体化させるというのが、僕にとってのリアルということです。単に浜辺だから波音と説明の状況音ではなく、その時の感情、物語の感情です。同時録音で撮影の時に聞こえる音は、そこの状況のほんの一瞬でしかないから撮影時以外の音がどうしても必要になります。

『BAUS』について

菊池今回の『 BAUS 映画から船出した映画館』(注31)の音の構成、編集は今回、助手なしでほぼ全部、自分一人でやることになったんです。これまでは最初にプランを立て、それに見合う音を探すのですが助手さんとやっている時は、長いこと一緒にやってきた人なのであの作品のあの時あの音といえばすぐに用意してくれていたんです。そういうことが続いていました。それは合理的だったのですが、反面、僕自身が希望した以外の音には出会う事はなくなっていたと言うことでもありました。今回はそのことに気づかされました。一人でやっているといろんな音に触れることが多くなり、直接そのシーンに関係ない様な音でもそこから触発されるってことは多いです。どんな音でも、何がしかの物語を持っている。そんなことに改めて感じて面白かったです。

長嶌今の映画音響はSEだけじゃなく台詞も音楽も単純な「記号」としての役割しか果たしていないと思います。でも、音は「固定された記号としての意味」を持つだけではなく、様々な意味を生み出す可能性を持っているものだと思います。ただ、単純な「記号」を良しとするという観客だけでなく制作者にも多いのも事実だとも思います。テクノロジーが発達してシンクロの話のように、昔は本意ではないんだけど、「映像と音のずれ」という「はみ出してしまったもの」が「表現」として再発見されることはあるかもしれないけど、新しいテクノロジーによってシンクロできて、その可能性を試す前に表現手段として消されてしまってクリーンだが無味乾燥とした単純な記号としてだけ残ってしまう。

菊池長嶌さんの言われたことはノイズの意味だと思うんだけど、昔は撮影の時にフレームサイズにマイク距離は規定されて、必然的に画角にあわせた音を拾うことになる。それが音の距離感となる。だけど最近ではワイヤレスのピンマイクが比較的自由に使える様になって、いつも近接的な台詞がきれいに録ることが可能になりました。そうすると距離感は関係なくなります。表現者がどの距離感で、被写体にどのように向かっているのかは無視される。その時、言葉は意味だけになってしまう。結果として音は人物との関係性が無視されることになります。

松井多くの芸術に共通することですが、大学でカリキュラム化していくことの限界を感じます。現場でしか見出せない、ケースバイケースの感性領域の次元があることを忘れてはいけないですね。

菊池ある作品の打ち上げで美術部と話していたんだけども、例えば「ここにコップがあります。ここに一升瓶があります。だけど、ここにもっと別の異質なものを入れたらば、ここの空気がどういうふうに変わるか」「ここに何を置くかっていうことでここの空気が多少なりとも変っていく。なんかそこが面白い」と言う様なことですね。だから「ここにこういう音が必要です」って言うんじゃなくて「ここにこういう音が入ったら、世界はどういう風に変化するか」っていうこと考えるのが大事かなと思います。

記憶の音、音の記憶

菊池話はちょっと飛ぶんですが、ある日、友人から「荷物を整理していたら6mmテープが出てきた。これをCD-Rにコピーして欲しい」って言われて再生して聞いてみたんです。昭和37年のクレジットがあり60年以上も前のものです。録音内容は当時、出始めていたオープンリールのテープレコーダーにご家族みんながわいわいとしている様子がナマの声で記録されていました。皆さんが初めてテープレコーダーに触れて歌を吹き込んでみたり念仏を吹き込んでみたり、実に楽しそうでした。ご家族は、普段は床についているお婆さん、その息子さん夫婦、近くに住んでいる親戚の方。マイクは録音機の付属品としてついて来たものかと思うけど少し離れているときちんと録音できない、しかし、それがまた、距離感が感じられ人物の配置もわかるんですね。聞き取れない音もあったので少し調整をしたり、わずかに聴こえて家庭の中の音を印象的になど、多少は手を加え、また友人の提案でラストにその世界を包むような音楽を最後に添えたりしてみたら昔のホームドラマの様でした。

このインタビューは、日本学術振興会 科学研究費助成事業の助成を受けた基盤研究 ©(課題番号23K00209) 音響技師 菊池信之の映画音響表現技法研究 (研究代表者 ⻑嶌寛幸、研究分担者 松井茂) の研究成果です。

  • (注1)小川紳介(おがわ しんすけ、1935年6月25日 – 1992年2月7日)
    小川プロダクションを設立したドキュメンタリー映画監督。成田空港建設反対闘争(三里塚シリーズ)や山形県での農村生活(『ニッポン国古屋敷村』)に密着した長期的な撮影スタイルで知られ、国内外に多大な影響を与えた。山形国際ドキュメンタリー映画祭の創設も提唱した。
  • (注2)三里塚闘争
    成田空港(2004年4月1日以降の正式名称は成田国際空港)の建設または存続に反対する闘争。
  • (注3)大津 幸四郎(おおつ こうしろう、1934年 – 2014年11月28日)
    映画監督、撮影監督。土本典昭や小川紳介の監督によるドキュメンタリー映画で撮影を手がけた。
  • (注4)『日本解放戦線・三里塚』
    小川紳介/1970/モノクロ/141分
    「三里塚」シリーズの第二作。通称「三里塚の冬」。
  • (注5)『映画作りとむらへの道』
    福田克彦/1973/モノクロ/16ミリ/54分
    福田克彦監督が小川プロダクションに助監督として参加していた73年、当時撮影中だった「三里塚・辺田部落」の舞台裏を、練習作として製作、撮影していた未発表のフィルムをまとめた中篇ドキュメンタリー。
  • (注6)田村正毅(たむらまさき)
    映画キャメラマン。1939年、青森県生まれ。2002年、名前を「たむらまさき」に変更。小川紳介、黒木和雄、柳町光男、青山真治などの監督作品を担当した。
  • (注7) 『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る』太田出版 2012
    『小川伸介を語る』フィルムアート社 1992年 P108~109
    『小川伸介 映画を獲る 山根貞雄編』太田出版 2012年
    (原典「シナリオ」1972年7月号および8月号「三里塚闘争は終わらない」前後編)
  • (注8)『ニッポン国古屋敷村』
    小川紳介/1982/カラー/16mm /210分
    ベルリン映画祭国際批評家賞受賞作。
  • (注9)『1000年刻みの日時計 ― 牧野村物語』
    小川紳介/1986/カラー/16mm/222分
  • (注10)青山真治(あおやましんじ)
    映画監督、小説家、映画批評家、音楽家。2000年『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で、国際批評家連盟賞とエキュメニカル審査員賞を受賞。2001年、同作のノベライズ小説『EUREKA』で第14回三島由紀夫賞を受賞。2011年『東京公園』が第64回ロカルノ国際映画祭で金豹賞審査員特別賞を受賞。
  • (注11)『路地へ 中上健次の残したフィルム』
    青山真治/2000/カラー/64分
  • (注12)『ユリイカ』
    青山真治/2000/カラー/217分
    第53回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞とエキュメニック賞受賞。
  • (注13)『TAMPEN』
    2000/カラー/65分
    2001年プサン国際映画祭正式出品作品。
  • (注14)黒沢清(くろさわきよし)
    映画監督、脚本家、映画批評家、小説家。
    2015年 第68回カンヌ国際映画祭 ある視点部門『岸辺の旅』監督賞
    2020年 第77回ヴェネツィア国際映画祭『スパイの妻』銀獅子賞(監督賞)
  • (注15)『大いなる幻影』
    黒沢清/1999/カラー/95分
  • (注16)諏訪敦彦(すわのぶひろ)
    映画監督。
    1999年『M/OTHER』第52回カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞
    2005年『不完全なふたり』第58回ロカルノ国際映画祭の国際コンペティション部門 審査員特別賞
    近作に『ライオンは今夜死ぬ』(2017)、『風の電話』(2020)がある。
  • (注17)堀越健三(ほりこしけんぞう)
    映画プロデューサー。映画製作配給興行会社ユーロスペース元代表。東京藝術大学、開志専門職大学 アニメ・マンガ学部で教授として教鞭を取った。
  • (注18)『圧殺の森』
    小川紳介/1967/モノクロ/16mm/105分
  • (注19)ナグラ(Nagra)
    1951年にスイスで創業されたプロフェッショナル向けオーディオ
  • (注20) SLO
    「Nagra Kudelski SLO Synchronizer(SLOシンクロナイザー)」 Nagra IIIなどのリール式フィールドレコーダーと、16mmや35mmのフィルムカメラを同期させる機材。
  • (注21)シネコーダー
    フィルム映画の撮影・編集現場で使われる映像と音声を同期させて録音・再生する磁気式の録音機。
  • (注22) 佐藤真(さとうまこと)
    ドキュメンタリー映画監督。『阿賀に生きる』(1992)は新潟県阿賀野川流域に3年間滞在して撮り上げた。
  • (注23) Pro Tools 
    デジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)ソフトウェア。デジタル録音、編集、ミキシング、MIDI制作が可能。
  • (注24)ベータカム( BETACAM)
    1982年にソニーが開発したアナログコンポーネント記録の放送・業務用カセット式VTR。かつて放送用・業務用における撮影において、世界中で事実上の標準方式となっていた。
  • (注25) FOSTEX PD-6
    8cm DVD-RAM ディスクをメディアに採用した、ポータブルタイプ6トラックレコーダー。
  • (注26) DAT
    Digital Audio Tapeの略。 アナログの音楽信号を、一度デジタル信号に直してテープに記録し、再生するときはデジタル信号を再びアナログ信号に戻して再生する。
  • (注27)『レイクサイドマーダーケース』
    青山真治/ 2004 / カラー/118分
  • (注28)SOUND DEVICES 788T
    SOUND DEVICES社の8インプット、12トラックレコーダー。CL9は788T用のコントローラー
  • (注29) flowerwild
    Web 映画マガジン
    2006年に「菊池信之インタビュー」が掲載された。
    http://www.flowerwild.net/2006/07/2006-07-19_122229.php
  • (注30)『聞こえていますか、映画の音(サウンド)』久保田幸雄 ワイズ出版 2004年
  • (注31)『 BAUS 映画から船出した映画館」
    甫木元空(ほきもとそら)/2025 /カラー/ 116分

菊池信之 フィルモグラフィー

  1. 1982 ニッポン国古屋敷村 小川紳介
  2. 1986 1000年刻みの日時計ー牧野村物語 小川紳介
  3. 1988 HARE TO KE ハレトケ レギーナ・ウールバー
  4. 1989 扇の刃 ブリキッテ・クラウゼ
  5. 1994 エンジェル・ダスト (石井聰亙) 石井岳龍
  6. 1995 木と土の王国 青森県三内丸山遺跡94 飯塚俊男
  7. 1995 書かれた顔 ダニエル・シュミット
  8. 1996 一万年王国 青森県の縄文文化 飯塚俊男
  9. 1997 ナージャの村 本橋成一
  10. 1998 TOKYO EYES ジャン=ピエール・リモザン
  11. 1998 100年の絶唱 井土紀州
  12. 1999 M/other 諏訪敦彦
  13. 1999 大いなる幻影 黒沢清
  14. 2000 EUREKA 青山真治
  15. 2001 H-story 諏訪敦彦
  16. 2001 月の砂 青山真治
  17. 2001 路地へ 中上健次の残したフィルム 青山真治
  18. 2001 路地へ 中上健次の残したフィルム 青山真治
  19. 2001 SELF AND OTHERS 佐藤真
  20. 2004 たった8秒のこの世に、花を 稲川方人
  21. 2004 阿賀の記憶 佐藤真
  22. 2006 チーズとうじ虫 加藤治代
  23. 2007 サッド・ヴァケイション 青山真治
  24. 2007 神童 萩生田宏治
  25. 2008 YANG YAKUZA ジャンピエール・リモザン
  26. 2009 長江に生きる フォン・イエン
  27. 2009 私は猫ストーカー 鈴木卓爾
  28. 2010 玄牝 川瀬直美
  29. 2010 祝(ほうり)の島 纐纈あや
  30. 2010 ゲゲゲの女房 鈴木卓爾
  31. 2011 東京公園 青山真治
  32. 2011 ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち 古居みずえ
  33. 2012 かぞくのくに ヤン・ヨンヒ
  34. 2012 ライク・サムワン・イン・ラブ アッバス・キアロスタミ
  35. 2013 夏の終わり 熊切和嘉
  36. 2013 ペタル ダンス  石川寛
  37. 2013 共喰い 青山真治
  38. 2014 ドライプイン蒲生 たむらまさき
  39. 2015 海のふた 豊島圭介
  40. 2016 風の波紋 小林茂
  41. 2016 はるねこ 甫木元空
  42. 2017 変魚路 高嶺剛
  43. 2017 海辺の生と死 越川道夫
  44. 2019 牧師といのちの崖 加瀬澤充
  45. 2020 空に住む 青山真治
  46. 2020 のぼる小寺さん 古厩智之
  47. 2022 はだかのゆめ 甫木元空
  48. 2024 PLAY!〜勝つとか負けるとかは、どーでもよくて〜 古厩智之
  49. 2025 BAUS 映画から船出した映画館 甫木元空
  50. 他、多数
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