東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻

  
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  1. 堀越謙三さんを偲んで

堀越謙三さんを偲んで

大学院映像研究科映画専攻長 諏訪敦彦



 個人的には私が東京藝大大学院映像研究科に着任したときには堀越謙三さんはすでに退官されていたので、直接机を並べたわけではないのだが、堀越さんがいなかったら、私は東京藝大の教壇に立つということはなかった。いや、それだけではなく彼がいなければ私は映画を監督するということもなかったのではないだろうか?
 きっと私だけではない。1986年に堀越謙三さんによって創設され、ミニシアター文化の先駆けとなった渋谷のユーロ・スペースで配給上映された数々の作品を見ることによって、私たちは映画の前線へと導かれたのではなかったか。当時、まだ映画館は単に興行施設と思われていた時代に、新しい先鋭的な作品、誰も知らなかった作家が次々と紹介され、若い観客たちは貪るようにそこに通いつめた。ファスビンダー、ストローブ・ユイレ、ダニエル・シュミット、カウリスマキ。そして当時学生であった私たちと変わらない26歳のレオス・カラックスが監督した『汚れた血』の衝撃。初めてキアロスタミの作品を通して見たイランの風景。堀越謙三という人を直接知っていようといまいと彼の買い付けたこれらの作品群が日本で上映されたとによって、私を含めたくさんの映画作家が生まれたと言っても過言ではない。いや映画人だけでなく音楽家やアーティスト、評論家や小説家、さまざまな人の人生に大きな影響を与えたであろう。以後、個性的なミニシアターが全国に誕生して日本独自の映画文化として発展してゆく。
 そして堀越さんの活動は映画を見せることにとどまらず、直接映画の製作に関わってゆく。しかも、ほとんど資金の回収など見込めそうもない困難なプロジェクトのプロデューサーとして、長年にわたりキアロスタミやカラックスなど一筋縄ではいかない作家のために奔走された。堀越さんはそれがどんなに実現困難でも自分の好きな作家の作品が見たいのである。しかし、その夢とそれを実現させる経済的な根拠を両立させることは容易なことではない。1999年、難解な映画と評された『ポーラX』の上映で喝采とブーイングの嵐の中、監督のレオス・カラックスの孤独に寄り添いながらカンヌのレッドカーペットを歩く堀越さんがいた。そのブレることのない堂々とした姿に私は心から拍手を送った。
 フランスのシネマテーク(映画博物館)から多くのヌーベル・ヴァーグの監督たちが生まれたように、映画を「見せること」が何より重要な映画教育であるが、堀越さんは1997年に映画美学校を発足させ、そのユニークな教育で多くの映画人を送り出すことになる。
 そして2005年の東京藝術大学大学院映像研究科の設立につながってゆく。設立にあたって海外の映画教育を精緻に調査されたり、文字通り粉骨砕身されて現在にもつながる映像研究科の基礎が形作られた。北野武監督を監督領域の教授として迎えられたのも、堀越さんの尽力である。このふたつの教育機関から巣立って行った映画人たちが近年世界的な活躍を見せ始めたことはみなさんよくご存知であろう。
 私がまだ藝大に着任する前、ふと馬車道を通りかかった時、撮影機材車に一人で資材を積み込んでいる堀越さんを見かけた。学生は今別件で忙しいので、俺がやってるんだ、と汗だくで笑っていた。楽しそうだった。そういえば苦しそうにしている堀越さんを私は見たことがない。本当のことはわからないが、どんな時も、楽しそうに見えた。「映画を作る」とはさまざまな不安と隣り合わせの過酷なプロジェクトだが、堀越さんがいるとなんとか乗り越えられるような、そんな勇気を得られる存在だった。堀越さんが亡くなって、あまりに大きな喪失感と映画界においてひとつの時代が終わったという感傷に襲われるが、多くのものが多くの人々によって引き継がれたはずである。一緒に実現しようとして道半ばのこともあったが、いつかまとめて堀越さんに笑顔でご報告したいと思っている。
 堀越さん、お疲れ様でした。心よりご冥福をお祈りします。

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