東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻

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  1. “この困難な状況を乗り切るために、知っておくべきことがある” 市山尚三(客員教授)インタヴュー vol.1

“この困難な状況を乗り切るために、知っておくべきことがある” 市山尚三(客員教授)インタヴュー vol.1

映画プロデューサーとして、ジャ・ジャンクーやホウ・シャオシェンを始め、主にアジア圏の海外監督のプロデュースを90年代以降活発に行いつつ、同時に、いまや国際的にも価値を高める映画祭「東京FILMEX」を立ち上げた市山尚三さん。映画の「国際化」を軽やかに体現する、日本でも数少ない人物のひとりである市山さんが、現在の困難な映画状況を乗り切るためのさまざまなヒントを語ってくれました。

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松竹時代

偶然の「助監督試験」から『その男、凶暴につき』へ

 

──市山さんはもともと松竹にいらっしゃったとのことですが。

市山:大学を卒業してそのまま松竹に入りました。単純に大学の頃から映画が好きなだけで、映画研究会に入って映画をつくっていたわけでもないし、評論を書いていたわけでもない。正直なところ映画業界に入るとも思っていなくて、どちらかというと出版社の試験なんかを受けていたんです。そんななか、松竹が助監督試験を十何年ぶりかに行うという新聞記事が目に入った。それで軽い気持ちで、おもしろそうだなと思って、受けてみました。

 

──助監督試験ですか?

市山:後でわかったことですが、当時公開された『キネマの天地』(86/山田洋次)の宣伝キャンペーンの一環として助監督公募を行ったようです。あの映画は昔の助監督の物語ですから。それ以降はまったく募集していないので、本当に一回限りのイベント募集でしたね。

 

──では80年代初頭の東京で映画を浴びるように見ていたわけですね。

市山:そうですね。ちょうど六本木にシネ・ヴィヴァンもできて、他にも続々とアート系のミニシアターがオープンして、さまざまな映画が見られるようになっていました。ホウ・シャオシェンやチェン・カイコーなどが紹介され始め、アジア映画のニューウェーブがいろんなところで見られるようになった。その一方でゴダールなんかがいつも満席になっていたり。まさしくミニシアター全盛期のなかで映画を見ていました。

 

──蓮實重彦さんの影響力も、ものすごく強い時代でしたね。

市山:実は僕、東大の2年のときに蓮實さんの講義を半期だけ受けました。こんなことを言うのも恥ずかしいですが、相当大きな影響がありましたね。それまで僕はどちらかというと「一般的な」映画ファンというか、ごく普通に洋画の話題作を中心に見ていて、日本映画の旧作なんてあまり興味がなくて見ていない。そんな感じの、よくありがちな映画ファンだった。ところがそのときの蓮實さんの授業のお題が50年代日本映画だったんです。溝口や黒澤はそれなりに見ていましたが、小津ですらほとんど見ていない状態。成瀬だってそうです。ましてやそのとき取り上げられたマキノ雅弘や中川信夫なんて……。その講義の内容だって──まあ有名な話ですが──作品のテーマ性なんて無視して、ただ「そこに何が映っていましたか?」というもの。僕にとっては本当に新鮮な講義でした。そこから派生してハリウッド50年代の映画も見るようになったり……。あの講義がなかったら映画界に入っていなかったかもしれないですね。ごく普通の映画好きの人で終わっていたかもしれない。

 

──しかも、十数年にいちどの松竹の助監督試験にぶつかるとは、とても運が良いとも言えますね。

市山:ええ。でも松竹の助監督試験にはシナリオ試験があったんです。もちろん僕はシナリオなんて書いたこともないし、絶対に落ちると思っていて。すると松竹から、助監督ではなく、本社採用でよければ来てほしいと。聞けば、プロデューサー、宣伝マン、劇場やら営業やら、いろいろ可能性があると。それで「じゃあプロデューサーをやりたいので行きます」と、つい言ってしまった。もちろんそのときはプロデューサーが何をする人間なのかもよくわかっていませんでした。ゴダールの『軽蔑』(63)でプロデューサー役のジャック・パランスはイヤな奴だし、あるいはヴェンダースの『ことの次第』(81)でも、マフィアに追われて逃げ回っているプロデューサーが出てきますよね。とにかく、あまり良いイメージはなかったんだけど(笑)、でも映画製作に関わっていることは間違いない。もともと自分で監督をする意思はないし、自分が新作を見てみたいと思う監督の映画製作を手伝う立場ならおもしろいと思ったんです。

最初は丸の内ピカデリーに配属されて、半年ぐらい劇場にいました。その後本社に戻されて、当時「番組調整スタッフ」と呼ばれていた部署に配属されました。80年代は日本のメジャー会社が自社製作をどんどん減らしていて、たとえばフジテレビや角川映画など、外部のテレビ局やプロダクションとの連携を強めていった時代なんです。そういった連携を調整する部署として、東宝は早々と「調整部」をつくっていた。それで遅れて松竹も「番組調整スタッフ」という部署をつくったわけです。僕はそこに配属されて、初めて映画の現場というものを見ましたね。撮影現場がうまくいっているかどうかを確認したり、出資者と会って契約の話を詰めたり。まあ僕はまだアシスタントをやっていただけですが、そういったことを1年ぐらいやったとき、当時、関連会社の松竹富士の製作部長だった奥山和由プロデューサーが『226』(89/五社英雄)という大作をつくることになり、アシスタントがいないので僕が呼ばれて、プロデューサー補になりました。

 

──初めてプロデューサー補としてついたのが奥山和由さんだったとは、相当なプレッシャーですよね……。

市山:しかも大作の『226』。いきなり五社英雄監督、笠原和夫脚本。いまから考えても信じられないですよね。プレッシャーは並大抵のものではなかった。奥山さんはすごく忙しいので、打ち合わせにいないことが多くて、代わりに僕が入って3人で打ち合わせをするわけです。でも笠原さんとの雑談とか、すごくおもしろかったですよ。マキノ雅弘の話とか『仁義なき戦い』の裏話とか……。まあとにかく、いきなり修羅場に放り込まれて、いま考えるとものすごく勉強をさせてもらった。そしてその次についたのが『その男、凶暴につき』(89/北野武)でした。

 

──『その男、凶暴につき』にはプロデューサーとしてクレジットされています。

市山:実態はプロデューサー補です。奥山さんが「肩書きなんて気にするな。もうプロデューサーという意識でやれ」という方で、それでクレジット上そうなっただけです。実際は奥山さんのアシスタントにすぎませんでした。

この作品は当初、深作欣二さんが監督だったのが、撮影前に北野武さんに変わった。撮影が始まってからは、日に日に傑作が出来上がるのを現場で見ているような感じでした。そのとき初めて、この仕事は本当におもしろいと思いました。僕が入社した当時、松竹は何となく後ろ向きだったんですね。東宝のひとり勝ちが続いていて、松竹は『男はつらいよ』シリーズ以外まったく当たらない。ちょうど『釣りバカ日誌』が登場する直前でした。しかもお客さんは日本映画を見ないで、ハリウッド映画ばかり見ている時代。裏では松竹が買収されるんじゃないかと噂が立っていたり、とにかく後ろ向きな空気でした。だからここで2〜3年やっておもしろいことがなかったら辞めて、別のことを考えようと思っていた。ところがそんなときに『その男、凶暴につき』に当たってしまった。こういうことがあるなら絶対に続けようと思いましたね。

 

初めての海外映画祭

映画の世界地図を体感する

 

──そして、その後もプロデューサーとして歩んでいくわけですね。

市山:そこから自分でちゃんとプロデューサーを務めたのは竹中直人監督の『無能の人』(91)。竹中さんが監督をやりたいと奥山さんに相談して、ただ奥山さんは非常に忙しかったので、僕が担当することになりました。最初は自分で出資者を集めようとしたんですが、なかなかうまくいかず、最終的にそこは奥山さんに頼りました。それ以外、企画から現場の制作、宣伝まで、プロデューサーの仕事を全部ひとりでやったのは、この作品が初でした。

もともと竹中さんとはオリジナルで何かやろうと言っていたのですが、なかなかうまくいかなかった。それで1年ぐらい経過して、このままだと企画自体が危うくなるので原作ものでいきましょうとなって、竹中さんが、つげ義春をやりたいと。そういった流れでした。脚本づくりから、現場のお金の管理、編集段階と、ずっと付いていて……。そしてここで偶然ながら、映画祭というものにも初めて触れることになるわけです。ヴェネチア国際映画祭の批評家週間に選ばれたんですよ。

 

──始めから映画祭を想定していたわけではないんですか?

市山:まったくの偶然です。ちょうどその時期、いまFILMEXのディレクターを務めている林加奈子さんに出会ったんですが、当時彼女は川喜多記念映画文化財団でいろんな映画祭のプログラマーたちに日本映画の紹介をしていた。それで『無能の人』が完成したばかりだったので、プリントを財団に送ったら、ちょうどマルコ・ミューラーが見てくれて……。

 

──マルコ・ミューラーは後のヴェネチア国際映画祭のディレクターですね。

市山:当時マルコはまだロカルノ国際映画祭のディレクターを務めつつ、ヴェネチア映画祭にアジア映画を推薦するような役割を担っていたんです。それで『無能の人』も推してくれて、批評家週間に入った。これはまったくの偶然でした。誰ひとり、映画祭に行こうなんて考えてもいませんでしたから。当時の空気では、映画祭に出品するのなんて巨匠だけ。大島渚監督や今村昌平監督とか。もちろん一方では、林海象監督や柳町光男監督たちインディーズ系の監督たちが自力で映画祭に出していたわけですが、松竹のような会社の中では新人監督作品を映画祭に出そうという空気はありませんでした。最初にヴェネチアから招待が来たとき、国際部の部長からは「本当に出すの?出すとたくさん経費がかかるよ」と言われましてね。松竹は比較的映画祭出品は積極的な方だったのですが、コンペティション部門に選ばれたりすると盛大なパーティをやったりして、たしかにお金がかかっていたんです。でももちろん最小限のやり方もあるわけですよ。ヴェネチアに行くのは竹中監督とマネージャーさんだけで、アテンドは現地で雇う。英文資料もモノクロでオモテウラ1枚。その経費は宣伝部に掛け合って、9月にヴェネチアで話題になれば11月公開に向けた宣伝になる、だから宣伝費に含めてくれ、とかね。

 

──初めて企画の最初からプロデューサーとして関わった作品がヴェネチアに招待されたわけです。どんな感覚を持ちましたか?

市山:驚きでした。正直、批評家週間なるものの存在だって知らなかった。コンペしかないと思っていましたからね。あのときはフランス映画社の川喜多和子さんをお訪ねして、いろいろと教えてもらいました。ヴェネチアに毎年行っている人なんて日本では川喜多さんぐらいでしたから。ジャーナリストもほとんど行かないし、マーケットがないのでバイヤーも行かない。ああ、でもあの年は蓮實さんがヴェネチアにいらっしゃいましたね。

そんな状態でしたが、国際批評家連盟賞も獲って、とにかく宣伝効果は抜群でした。映画祭に選ばれて、賞を獲るなんてこと自体が、当時は珍しかったわけですよ。国際批評家連盟賞は映画祭の正式な賞ではないけど、そんなことわかりっこなくて(笑)、とにかく賞は賞。それでものすごい勢いでパブが出て、大宣伝になりました。『無能の人』の興行的成功のかなりの部分は、正直ヴェネチアのおかげでしたね。日本の批評家の反応も一変しました。実は6月ぐらいに一度、完成披露試写会をやっていたんですが、後でリサーチしたら、良い反応と悪い反応で半々でした。それでひとまず試写を中断して、ヴェネチア後に試写を組んだところ、もうみんなが褒め始めてくれたわけです(笑)。

 

──そういう時代だったと(笑)。

市山:いまならそんなに関係ないですよね。でもあの頃は「お墨付き」というものがとても大きい時代だったので、けなせない雰囲気になってしまったんです。

これをきっかけに映画祭に興味を持ったので、ヴェネチアの後、フランスのナント三大陸映画祭に『無能の人』が招待されたとき、竹中さんが行けないので、僕が行かせてもらったんです。そしてナントで初めて、いろんな人たちに出会いました。ああ、こういう世界があるんだなと。しかも、その年はマリ映画やアンデス地方の映画の特集をやっていて、スレイマン・シセやラウル・ルイスの初期作品を初めて見たり。後に日本でも公開される『少年、機関車に乗る』(91/バフティヤル・フドイナザーロフ)もそこで何の情報もなく見て、とんでもなく驚いたり。中央アジアの映画なんて初めてでした。あのときの体験は、のちにFILMEXを始めるのにすごく大きかった。カンヌやヴェネチアみたいに大きな映画祭ではなく、小さいけれどちゃんとポリシーを持っていて、しかもどの作品を見ても発見がある、というね。

 

ホウ・シャオシェン、ジャ・ジャンクーとの出会い

国際共同製作の始まり

 

──その後、松竹はホウ・シャオシェンの作品に関わるようになり、もちろん市山さんがプロデューサーを務めます。そもそもどんなきっかけがあったのでしょう?

市山:『無能の人』が一通り終わった後に、東京国際映画祭に出向になり、アジア秀作映画週間のプログラミングを担当するようになったんです。それで93年に『戯夢人生』(93/ホウ・シャオシェン)をオープニングで上映しました。そこで初めてホウ・シャオシェンに出会い、いろいろ話をしました。もちろん彼の映画は大学の頃から見ていて、すごい監督だと思っていました。その翌年、ホウ・シャオシェンの事務所から連絡があった。『好男好女』という企画を、日本のある会社の出資を当てにして進めていたのが、突然キャンセルされて困っていると。どこか出資してくれるところはないだろうか、という相談でした。

 

──松竹に対してではなく市山さん個人に相談がきた、ということですか?

市山:ええ。さすがに松竹が出資するとは思っていなかったようです。僕も業界の人間なので、どこかに当てがあるんじゃないかと思ったんでしょう。とりあえず、まずは自社に言ってみようと思い、奥山さんに相談しました。ほぼふたつ返事でOK。まあそれがスタートだったわけです。ホウ・シャオシェンをプロデュースしたかった、というのではなく、偶然持ち込まれた話で、それぐらいの金額ならいいよ、ということでスタートしたわけです。

 

──まさに個人と個人の繋がりで、事が動いてしまったわけですね。

市山:まさしくそうです。ホウ・シャオシェンにとっても幸運だったと思います。普通の会社であれば、きちんと会議にかけて決めるところを、当時は奥山さんのトップダウンですべてが決まるような状態だった。そこは大きかったですね。出資額が、松竹が通常作っている映画に比べるとかなり低かったこともあるかもしれません。

それでホウ・シャオシェンと3本やることになりました。僕自身、国際共同製作を進めるべきだと思った理由が、社内的にひとつあったんです。当時、日本映画を海外に売ることは非常に難しかった。松竹には国際部があってセールスもやってはいるけれど、全然売れない。カンヌでブースを構えても訪ねてくる人は少なく、マーケットでスクリーニングしてもほとんど見に来ない。そんな状態のなかで、ホウ・シャオシェンの作品がラインアップに入っていると、いくらかは実績があがるだろうと考えたんです。会社もそれで納得してくれて、実際やっぱり売れましたからね。松竹の国際部の仕事を活性化させる意味はあったと思います。

 

──国際共同製作ゆえの問題には、どんなものがあるのでしょう?

市山:国際共同製作といっても、結局ホウ・シャオシェン本人とのやり取りなわけで、日本で竹中直人さんとやるのとあまり変わらないんですよ。そこに誰も介在しないので、その意味では楽でしたし、こちらとしてもまったく違和感なくやれました。

まあ問題といえば、ホウ・シャオシェンがシナリオと全然違うものを撮影していたり、撮影が予定通りに終わらずにどんどん延長するとか(笑)。そういった彼本人の問題を、なんとか松竹とのあいだに入って、決裂しないように調整はしていました。僕が松竹を出た後、ホウ・シャオシェンは『珈琲時光』を東京で撮影しました。そのときに聞いた話ですが、ホウ・シャオシェンのスタイルで、日本で撮影するのは大変なんですよね。かなりの撮影をゲリラでやるしかないし、スケジュールがころころ変わるわけです。台湾だとみんなそれに対応しながら、まあぐだぐだになりながら何とかやるわけですが、日本のスタッフには難しい。日本はアジアでは珍しく、制作体制が非常にシステマチックに組まれているからです。助監督の指揮系統もカッチリしていて、乱されると困る。これは合作で起こりうる問題のひとつでしょうね。韓国映画が日本ロケを行う際、よく同じような問題が起こって、現場が混乱するという話は聞きます。たとえば韓国では監督が決めないと何も動かないことが多いですが、日本だと助監督やラインプロデューサーがテキパキ仕切って、監督が動かなくても進めてしまう。そういった習慣の違いは、いろいろありますよね。

 

──当時の日本では、まだ国際共同製作はほとんどなかったですよね。

市山:あまりないですが、たとえば堀越謙三さんとNDFの井関惺さんがプロデュースした『スモーク』(95/ウェイン・ワン)。現場はすべて海外だけど、最初の企画開発段階から関わるというやり方。井関さんや堀越さんが、やはり先駆けでしたよね。

ヨーロッパでは、プロデューサーが他国の映画をプロデュースすることがよくあります。たとえばイギリスのピーター・グリーナウェイのある時期までの映画はオランダのキース・カサンダーがプロデューサーです。ジェレミー・トーマスもさまざまな国の監督と仕事をしています。数年前に亡くなったフランスのアンベール・バルサンだって、いわゆる第三世界の監督たちとよく仕事をしていた。こういうプロデューサーは日本にあまりいないなと思っていたので、ホウ・シャオシェンとの仕事は、偶然だったとはいえ、自分にとってはすごくおもしろかった。普通に日本映画のプロデュースもやってみたいですが、まあそれは自分以外の優秀な方がやっているわけだし、そこを積極的にやるより、みんながやっていないことをやった方がおもしろいなと。しかもそのおかげで海外のセールス・エージェントやプレスアタッシェなど、普通の日本映画をプロデュースしていては出会えないさまざまな人々に出会うわけです。この人脈は大事にしようと思っていましたね。

 

──そういった人脈が、大きな武器となっていくわけですね。

市山:そうです。そんなとき、松竹で奥山さんが役員会で解任されるという事件が起きた。その後の新経営陣の方針として「今後は国際共同製作はやらない」という決定が出たんです。だから僕は邦画のプロデューサーをやれと言われました。それはそれで悪い話ではなかったんですが、ただ、せっかくできた人脈を無駄にするのはとても惜しいと思ったんです。そしてもうひとつ、重要なことがありました。松竹で解任劇が起きた翌月のベルリン映画祭で、ジャ・ジャンクーの作品に出会ったことです……。

 

──どの作品でしたか?

市山:『一瞬の夢』(97)です。もう、圧倒されましたね。上映の後、たまたま一緒に話す機会もあって、彼はホウ・シャオシェンが大好きで、尊敬しているとかね、そんな感じで盛り上がって。すると『プラットホーム』という念願の企画があって、絶対に中国ではお金が集まらないので、海外のプロデューサーを探していると言うわけです。「じゃあ脚本ができたら送ってほしい」と僕は言ったんですが、でもこのまま松竹にいたら、それも実現できなくなる。どうしたものか……と考えていた頃、ちょうどオフィス北野の森社長がティー・マークという別会社をつくったんですね。北野作品以外の映画の製作や、宣伝、ウェブ制作など、いろんな目的のための会社で、そこのプロデューサーを探しているという話があった。僕は『その男、凶暴につき』以来、森さんとも知り合いですし、会わせていただいて開口一番「国際共同製作に興味がありますか?」と聞いたんです。「ぜひやりましょう」と言われました。それで『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(98)がカンヌでお披露目された後、ティー・マークに移りました。森さんにもジャ・ジャンクーの話をして、たしか10月の釜山映画祭でふたりを引き合わせたのが最初でしたね。

 

──その後、プロデューサーとしてのお仕事はすべて国際共同製作ですよね。

市山:舩橋淳監督の『ビッグ・リバー』(06)がありますが、あれもアメリカロケですからね……。同じ舩橋監督の『桜並木の満開の下に』(12)が唯一の日本映画といったところでしょうか。別に日本の企画を避けていたわけじゃなかったんですが、こちらから積極的に仕掛けることもないまま、どんどん海外のものが続いていた、という感じです。ある程度進めたものの、いろいろな理由で実現しなかった日本映画の企画もいくつかありましたよ。だから、別に日本映画をやらないというつもりではなかったんです。

 

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